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ジャニーズ事務所

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分類ジャニーズ事務所

株式会社 ジャニーズ事務所(英文商号:Johnny & Associates, inc.) は、日本で最大手の男性アイドル専門の芸能プロダクション。同族経営。非上場企業。俗称:ジャニーズ帝国。
グループ会社全体での年商は、1000億円を超える。

本社所在地:〒107-0052 東京都港区赤坂9-6-35
創業:1964年(昭和39年)6月29日
法人登記:1975年(昭和50年)1月23日

設立

後にジャニーズ事務所を設立して社長となる喜多川擴きたがわひろむジャニー喜多川)は、アメリカに滞在していた高校時代にロサンゼルスの老舗劇場にて音楽監督のアシスタント(雑用係)のアルバイトをしており、袖口から様々なステージを観ている内に、エンターテインメントに感銘を受ける。

ジャニー喜多川は日本へ帰国後の1960年頃、知人のつてで豊島区椎名町の豊島区立真和中学校(2005年3月に閉校)の野球部で専属コーチを務めるようになる(当時の真和中学の卒業アルバムの野球部の白黒写真にはジャニーも一緒に写っている)。

1961年の夏、神宮外苑で模型飛行機を飛ばして遊んでいた少年たちに「野球をやろうよ」声をかけ、自らも少年野球チームを新たに作った。近所の少年たち約30名を集め、当時自分の住んでいた東京の在日米軍施設「ワシントンハイツ」(後の代々木公園)のグラウンドで指導していた。
このチームは弱かったため、ジャニーは当初、ふざけて「オール・ヘターズ」や「オール・エラーズ」などと呼んでいたが、メンバーの青井輝彦(後のあおい輝彦)が、「いつまでもヘターズやエラーズじゃ格好悪い。ジャニーさんが監督なんだし、ジャニーズでいいじゃん」と提案し、他の子供たちもそれに賛同したため、チーム名が「ジャニーズ」に変更された。

このチームのメンバーには、森ヒデキ(ジャニーの知人の息子。当時玉川学園初等部)、俳優の浜田光夫(当時玉川学園中等部)、小畑やすし、設楽幸嗣などが居り、応援団には松島トモ子も居た。
しかも、プロ球団や力道山などに支援されていて、練習場も後に池袋の立教大学のグラウンドへと移行した。そして野球だけでなく、このチームのメンバーで卓球大会に出場したこともあった。
なお、ジャニーは片親で育った浜田光夫のことを何かと可愛がり、後楽園球場で行われた巨人対阪神戦のナイターや、石原裕次郎の映画などに2人きりで連れて行ってあげていた。

1962年2月25日の日曜日(1962年1月説は誤報)、雨が降って野球の練習が中止になったため、ジャニー喜多川は、チームの球拾いをたまにしていた仲良しグループ4人組を誘い、映画『ウエスト・サイド物語』を観るために有楽町の「丸の内ピカデリー」へ連れて行く。丸の内ピカデリーは、当時の人気子役で野球チームのメンバーでもあった設楽幸嗣の父親が支配人を務める映画館で、特等席を取って映画を観せた所、少年たちは映画に熱い感動を覚え、その後も4人揃って映画館に通い、計13回も観ることとなった。

ちょうどこの当時、若い女性から“身近な男の子”として絶大な人気を集めていた男性アイドルコーラスグループ「スリーファンキーズ」の姿に触発されていたジャニー喜多川は、『ウエスト・サイド物語』に感動した少年たちをアイドルに育てるため、同年4月にグループ「ジャニーズ」を結成。

結成当初は、池袋南口の芸能プロダクション「名和プロダクション」に籍を置き、名和プロが運営していたタレント養成所「新芸能学院」でジャニーズの4人にレッスンをさせるべく、ジャニー喜多川は学院内に特別クラス「芸研」も設けた。
渡辺プロダクションとも業務提携をしながら、ジャニーズをマネジメントしていたため、当時の渡辺プロ関連の資料には「ジャニーズ」の名前が一部記されている。当時のジャニー喜多川は、渡辺プロの創業者・渡辺晋の運転手も務めていた。
この他、「渡辺プロダクション タレント友の会」が発行していたファンクラブ会報誌『YOUNGヤング』にも、ジャニーズは掲載されていた。(ジャニーズが渡辺プロを離れた後も、『YOUNGヤング』の1968年1月号には、ジャニーズの解散インタビュー記事が掲載されている)

1964年6月29日、名和プロから独立し、「ジャニーズ事務所」を創業。
最初はジャニー喜多川の個人事務所としての役割でスタートしたため、正式な会社名などは特に決まっておらず、単に“ジャニーズが所属している事務所”の意味でこの名称が使われ始めた。
(なお、2019年9月4日に東京ドームで開催されたジャニー喜多川の「お別れの会」にて、「関係者の部」に参加した者にのみ引き出物として配られたジャニー喜多川のフォトブック『Thank You & Forever Johnny』では、名和プロでの一連の経歴が全て省かれ、単に「1962年にジャニーズ事務所を設立」と記載されてしまっている)

一方、姉のメリー喜多川は、1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあったカウンターバー「スポット」を経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と結婚。
弟のジャニーが事務所を興すと、メリーもバーを閉店し、事務所の経理を担当するようになった。
以降、ジャニーとメリーの姉弟は、一躍“ジャニーズ帝国”を築き上げることとなる。

1975年1月23日、正式に株式会社として法人登記。
なお、ジャニーズ事務所は一般的に“アイドルの事務所”と捉われがちだが、本来は“ミュージカル俳優の事務所”である。また、男性タレント専門事務所とも認識されているが、かつては女性タレントも数名在籍していた。

隆盛期

ジャニーズ史上、最もクオリティ、スキルの高かったアーティストは少年隊だが、それとは別に、ジャニーズ事務所の歴史にはいくつかの大きな隆盛期が存在する。各時代においてその隆盛をもたらすきっかけとなったグループは以下の通り。

もう少し掘り下げてジャニーズ事務所の「男性アイドル事務所としての成功」を追ってみる。

[草創期のジャニーズ]
ジャニーズ事務所は、たのきんトリオの登場までは弱小芸能事務所に過ぎなかった。それは大物アイドル郷ひろみの事務所移籍に際して、何のアクションもとれなかった事実で証明される。

[1960年代後半~1970年代]
日本の芸能プロの草分けともいえる渡辺晋(渡辺プロダクション [通称:ナベプロ] の創業者)とほぼ同世代であるが、活動の開始は大きく出遅れたこともあり、先行する大手プロダクション群を凌駕し始めたのは1980年代に突入してからである。

ジャニーズ事務所は、事務所の起源ともいえるアイドルグループ「ジャニーズ」に始まり、彼らは映画の「ウエストサイド物語」に触発され、当時は画期的だったダンスを取り入れた歌唱を編み出した。
そしてアイドルグループがまだ珍しかった時代に一つの路線を示し、人気を得た1967年デビューの「フォーリーブス」、いわずと知れたスターアイドル歌手「郷ひろみ」らのデビューが続く。

[1980年代]
たのきんトリオの出現はジャニーズという単語に市民権を与えた。続く「シブがき隊」、「少年隊」などの正統派アイドルを次々に成功させ、芸能界を席巻した。とは言うものの彼らのグループ活動はわずか数年に終わり、メンバーの多くはソロ活動に移行していった。

さらに1987年には、7人組のアイドルグループ「光GENJI」をデビューさせた。光GENJIはローラースケートで踊りながらアクロバティックなライブを行うという、これまでにない革新的なアイドルグループとして注目され、非常に大きな成功を収めたものの活動期間は8年と、アイドルとしてはやや短命に終わった。
光GENJIが短命に終わった理由としては、

  • 社会現象になるほど歌が爆発的に売れすぎて、仕事に奔走することになったこと
  • 歌番組中心のためメンバー全員で出演する必要があり、休暇が取れずにストレスや疲労が多かったこと
  • トークや演技などの実力を磨く暇がなく、バラエティー番組やドラマなどで活躍できなかったこと
  • 歌番組が消えて音楽バラエティーが主流となったこと
  • ツッコミ役・イジラレ役などの個性をもったメンバーがいなかったこと

などが挙げられている。(ITmediaビジネスオンライン「2010年12月10日」より)

[1990年代]
1990年代には、「SMAP」を個性的なマルチタレント型グループとしてデビューさせた。SMAPは当初は光GENJIのような歌をメインにしたアイドルグループを目指していたが、デビュー後の1993年頃までは人気が出なかった事から、バラエティー番組と両立するスタイルを模索していった。

SMAPは既存の失敗を踏まえた上で、光GENJIの路線からさらにグループ性を発展させた路線へと展開し、ライブだけでなくバラエティー番組でも活躍できるアイドルとして注目を集め、個性的なメンバー達の掛け合いにスポットを当てることに注力し、かつ短命に終わらない持続性をもったグループとして大きな成功を勝ち取った。
SMAPのデビュー後にも、バンド形式の「TOKIO」、年齢差のある個性派アイドル集団「V6」、関西系の二人組ユニット「KinKi Kids」、王道的アイドルを目指す「嵐」らが次々にデビューし、SMAPに続くバラエティー番組でも活躍できるアイドルグループとして、着実に成功を収めていった。

これらの成功は、ジャニーズを単なるアイドル事務所からテレビ界を牛耳る有力事務所へと押し上げて、次第にメディア支配の構図が顕著となってくる。ブランドとなったジャニーズは、新世紀を迎える芸能界において聖域と化したのである。

[2000年代]
2000年代には、Kinki Kidsに続く二人組ユニット「タッキー&翼」、V6や嵐に続くワールドカップバレーのイメージキャラクターとしてデビューした「NEWS」、関西出身者だけで構成される「関ジャニ∞」、ジャニーズ異色のワイルドグループ「KAT-TUN」、メンバー全員が平成生まれの「Hey! Say! JUMP」など、個性的なグループを続々とデビューさせた。

[2010年代]
2010年代には、少年隊以来の3人組ユニット「NYC」、光GENJIを彷彿させるローラースケートを武器にした「Kis-My-Ft2」、嵐以来の5人組グループの「Sexy Zone」、ジャニーズ初のDVDデビューをした「A.B.C-Z」、V6同様に年齢差のある「ジャニーズWEST」、ジャニー喜多川にとって生涯最後のデビュープロデュースとなった「King & Prince」など、これまでの成功事例を取り入れる形で、所属タレントの活躍の場を広げていき、男性アイドルの礎を築いた。

ジャニーズはいつの間にかバラエティを中心にあらゆる番組に‘’ジャニーズ枠’を設け、露出していった。それが世代を超えた人気グループを生み出す、成功へのシステムのように思える。また一方ではJr.などで、昔ながらの小中高生相手のアイドル目当ての少女達の心も掴んでおり、まさに磐石の態勢を築き上げてしまった。

そもそもはジャニー喜多川の趣味を生かした仕事から始まったジャニーズの歴史、個人の趣味が日本の芸能文化を代表する一大社会現象にまで化けたというのは、まさに「奇跡」であるだろう。
正直、SMAPの出たての頃は、大学のキャンパスで男子学生が「SMAPのCDを買う」と言うのがギャグとして通用していたのだ。そのわずか数年後には、むしろSMAPは男のカラオケの持ち歌に化けていた。隔世の感を禁じえないとはこの事であろう。

ファミリークラブ

ファンクラブの組織は、「ジャニーズファミリークラブ」(通称:JFC、ファミクラ、ファミリー、ファミ、家族)と名付けられ、JFCを母体として、各タレントのファンクラブや情報局が作られている。
他の芸能事務所と比べても番組協力や番組観覧には力を入れており、各タレントの番組協力の募集を随時行っている。

厳しい会員規約が設けられており、一例として、ファンクラブ会員がタレントに会うために所属タレントの自宅に足を運ぶなどの行為が発覚した場合は、ファンクラブからの退会、およびコンサートへの出入り禁止などのペナルティーが科せられる。

詳細は「ジャニーズファミリークラブ」を参照。

バレーボールとの関係

1994年にジャニーズ事務所とバレーボール界の繋がりが生まれ、翌1995年以降は、4年に1度開催の『FIVB ワールドカップ』(フジテレビ系列)ごとに新たなアイドルグループを結成。
大会の応援サポーターを務めさせると共に、CDデビューさせるようになった(新グループの結成やCDデビューは2011年まで)。

  • 1995年 – V6(バレーボールドラマ『Vの炎』にも主演)
  • 1999年 – (バレーボールドラマ『Vの嵐』にも主演)
  • 2003年 – NEWS
  • 2007年 – Hey! Say! JUMP
  • 2011年 – Sexy Zone
  • 2015年 – Sexy Zone(中島、菊池、佐藤の3名のみ)
  • 2019年 – ジャニーズWEST

ワールドカップ以外での応援サポーターなど

  • 1994年 – 四銃士(テレビ朝日『ミキプルーン・ワールドトップ4バレー』を担当)
  • 2004年 – NEWS(TBS、フジテレビ『2004 アテネオリンピック バレーボール世界最終予選』を担当)
  • 2005年 – KAT-TUN
  • 2005年11月 & 2006年1月 – KAT-TUN、Kis-My-Ft2A.B.C.ジャニーズJr.
  • 2006年 – Kitty GYM(フジテレビ『女子バレーボール ワールドグランプリ 2006』を担当)
  • 2009年 – NYC boys(フジテレビ『女子バレーボール ワールドグランプリ 2009』を担当)
  • 2016年 – Sexy Zone(TBS、フジテレビ『リオ五輪 バレーボール世界最終予選』を担当)

ジャニーズショップ

通称:ジャニショ、ショップ。ジャニーズ事務所公認のグッズ販売店。1989年5月以降は「有限会社 ジェイステーション」、2017年2月からは「株式会社 ジェイベース」が運営している。『ジャニーズJr.名鑑』シリーズも販売。
2019年5月6日には「ジャニーズショップ オンラインストア」も開設された。

詳細は「ジャニーズショップ」を参照。




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