メリーきたがわ。1927年(昭和2年)12月26日生まれ、米カリフォルニア州ロサンゼルス出身。
日本名での本名:藤島メリー泰子、日本名での旧本名:喜多川メリー泰子。米国名での本名:Mary Yasuko Kitagawa Fujishima、米国名での旧本名:Mary Yasuko Kitagawa。異名:「ジャニーズの母」(森光子も同じ異名で呼ばれていた)、「ジャニーズの女帝」。
「メリー」という名前の由来は、クリスマスの翌日に生まれたことから、「Merry」→「Mary」で付けられた。日本の法律ではミドルネームが認められておらず、戸籍にもミドルネームの欄は存在しないため、「メリー泰子」が下の名前に当たる。
ジャニーズ事務所の旧取締役副社長 → 旧代表取締役会長 → 旧名誉会長。ジャニーズ・エンタテイメントの二代目代表取締役社長。
元・飲食店経営者、初代ジャニーズのマネージャー、フォーリーブスのスタイリスト。
ロサンゼルス生まれの日系二世(両親共に日本人)。弟はジャニーズ事務所の旧代表取締役社長・ジャニー喜多川。
亡き夫は藤島泰輔。一人娘は藤島ジュリー景子。元・担当秘書は伊豆喜久江(2016年2月に退社)。2021年8月14日、肺炎のため死亡。93歳没。
来歴
メリー喜多川の父親は、僧侶の喜多川諦道。1898年(明治31年)に大分県で生まれた。(早生まれではない。また、1896年〔明治29年〕生まれと書かれた文献は誤り)
私立古義真言宗聯合高野中学林(当時の修業年限は5年)、私立真言宗高野山大学(修業年限は4年6ヶ月)卒業。
諦道は8歳で下稚児(少年修行僧)として真言宗系の寺に得度(出家)し、13歳で和歌山県高野山の普賢院の僧正に師事。やがて高野山で真言密教の開教師(導師)となるが、放蕩三昧で、自ら「やくざ」や「遊び人」と称する異色の坊主だった。
なお、「諦道は高校時代に野球で甲子園に出場した」と書かれた文献が存在するが、これは正確には誤り。諦道の高校(当時は旧制中学校)時代は1911年4月から1916年3月の5年間で、諦道は私立古義真言宗聯合高野中学林の野球部に所属し、1915年(大正4年)に開催された「第1回 全国中等学校優勝野球大会」(後の高校野球)の関西地区予選には出場したが、初戦相手である大阪の明星商業学校に10対0で大敗しており、全国大会の代表校には選出されていない。また、関西予選と全国大会が開催されたのは大阪の「豊中グラウンド」である(阪神甲子園球場の完成は1924年)。
諦道の師の僧正が大隈重信や後藤新平らと親しくしていたことから、諦道も海外への思いを強めるようになり、諦道を可愛がっていた和歌山市の有力者・大谷家(息子の大谷貴義〔1905年5月31日 – 1991年5月17日〕は宝石商として財を成し、児玉誉士夫と並んで「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた人物で、元首相の福田赳夫のパトロンでもあった)からの援助を受け、諦道は真言密教の布教のために1924年(大正13年)2月より世界一周の旅に出発した(当時25歳)。大谷家との繋がりは、元々、諦道の父母が大谷家で世話になっていたことがきっかけであった。
そして同2月、ロサンゼルスのリトル・トーキョーのサウス・セントラル・アベニューにあった「髙野山真言宗 髙野山米國別院」(1909年〔明治42年〕に渡米した富山県出身の青山秀泰を中心とし、愛媛県人一世らが大半の発起人となって弘法大師〔空海〕を信仰するために1912年〔大正元年〕11月28日に「米國髙野山大師教会」の名で発足)の大使教会に到着。
ここではほんの2~3ヶ月だけ助法し、また世界一周旅行を続けるつもりだったが、当時の主監(最高責任者)が急に日本に帰国することになったため、急遽、諦道が第三代主監となる。以後、1933年までの9年間、米国大使教会の運営を務めた。
(ネット上では諦道が居た場所を、同じリトル・トーキョーの「真宗大谷派 東本願寺ロサンゼルス別院」とする記述も多数あるが、それは誤り)
諦道は活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役となる。ハリウッドのランドマーク「グリフィス天文台」の麓に居を構え、大阪に居た妻・江以(栄や栄子は誤り)も呼び寄せた。
そして生まれたのが、泰子(メリー喜多川)、眞一(愛称:マー坊。1930年生まれ。背が高く無口な性格)、擴(ジャニー喜多川。愛称:ヒー坊)の三姉弟だった。
諦道は仏事の他にも、奉納演芸を開催したり、ロスに寄港する日本海軍の歓待に尽力。若く薄給な日本海軍兵のための食事会も始めた。1930年5月27日に高松宮宣仁親王(後の海軍大佐)が、妻・高松宮妃喜久子(旧名:徳川喜久子。徳川慶喜の孫)と共にサンフランシスコに立ち寄って日系移民たちの前でスピーチを行った際には、奉迎会委員も務めた。
更に諦道は婦人会も設立し、毎週金曜日に寺院で婦人会を集めた料理教室を開いたり、日曜日にはサンデースクールとボーイスカウトも始めた。ボーイスカウトは第79隊(後に第379隊に改称)で、日系人少年33人で1931年に結成。(正式発足日は1932年2月7日。ネッカチーフには胎蔵曼荼羅の蓮台を朱色に染めてマークにし、その朱色を「慈悲の精神」の象徴とした。この79隊は、世界恐慌当時の反日の偏見に対し、日系人の子どもたちに自信をつけさせた他、1934年2月11日にはフランクリン・ルーズベルト大統領から表彰され、「ルーズベルト大統領賞」を受賞した)
また、メリーの母・江以は日本舞踊の名取だったため、婦人会では日舞や踊りの練習、発表会が頻繁に行われていたので、諦道は婦人会の力を借り、違う宗派も集めた盆踊り大会を開催した。(この盆踊り大会は、1934年よりリトルトーキョーで毎年8月に行われるフェスティバル「二世週日本祭」へと発展していった)
当時はまだ日米開戦前だったため、喜多川一家は日系移民の強制収容所に送られることもなく、1933年7月26日、就学前の3人の幼い子供たちに日本の教育を受けさせるため、サンフランシスコ港から貨客船「秩父丸」に乗って横浜港に到着し、大阪に移り住んだ。諦道は多くの教会員や一般同胞から敬愛されており、日本に帰国する際には引き止め運動まで起こった。(ネット上ではジャニーやメリーがアメリカで強制収容所に収容されていたとする記事が多数存在するが、これも誤報)
諦道は道頓堀にある高野山真言宗の寺「法案寺」の住職の世話で、後にプロ野球チーム「ゴールドスター(後の「千葉ロッテマリーンズ」)」のオーナーとなる橋本三郎の下で働くようになった。
翌1934年5月24日、母・江以が26~27歳の若さで京都で逝去。戒名は「真乗院芳室妙栄大姉」(霊標の行年は数え年で「二十八才」と彫刻)。以来、メリーが2人の弟の母親代わりとなった。
第二次世界大戦が始まり、1942年、父・諦道だけが大阪に残り、三姉弟は、和歌山市の有力者・大谷家が和歌山県東牟婁郡勝浦町(後の那智勝浦町)に持っていた島「中ノ島」の南紀勝浦温泉に身を寄せて疎開した。
やがてメリーは、近所の料理旅館の娘で2歳年上の歌劇女優・高橋純子を通じて、「OSK (大阪松竹歌劇団。後の「OSK日本歌劇団」)」の劇場に顔を出すようになる。(高橋純子は、後に「名和プロダクション」の初代社長・名和太郎夫人、そして同プロダクションの二代目社長になった人物)
メリーの物怖じせずに懐に入り込む性格は、同劇団の娘役スター・京マチ子にも気に入られ、大変可愛がられた。
また、戦時中に国内外の軍需工場に慰問活動を行っていた流行歌手・松平晃の前唄をしていた森光子とも、この時点で知り合っている。メリーは英語が堪能だったことから、戦後に劇団が駐留米軍で慰問公演を行う際には司会者として同行した。
1949年に、「日本は敗戦でめちゃくちゃだから、学校はアメリカの学校に行った方がいい。市民権(米国籍)も無くなってしまう」という諦道からの意見で、同年11月12日、三姉弟のみで横浜港から米軍のLST(軍用船)の「W.H.ゴードン将軍号」(船室はもっとも安価な三等)に乗って渡米し、同年11月24日にサンフランシスコ港に到着し、再びロスに移り住む(当時、メリー:21歳、マー坊:19歳、ジャニー:18歳)。
ロスに着いた三姉弟はまず、リトル・トーキョーの隣町に住む髙野山米國別院の総代の家を頼って間借りした。
しかしそれほど広い家でもなかったため、やがて三姉弟は別の3ヶ所の知人の家を間借りすることで、それぞれ分かれて住むようになった(ジャニーが身を寄せたのは散髪屋)。
そしてメリーは毎週土曜日に寺の支部のハーバーシティの日本語学校で日本語を教え、更に英語の語学学校にも通った。メリーの英語は日本訛りが強くて流暢ではなかったが、日常生活は充分にこなせるようになった。少し落ち着いてからは、ハリウッドの裕福な大邸宅でのハウスガール(住み込みでの家政婦)、ベビーシッター、ショップガール(売り子)もやった。
また三姉弟は、別院の檀家でもある有名な日系写真家・宮武東洋(1895年 – 1979年、香川県出身)がロスのリトル・トーキョーで経営していた写真館「宮武寫眞館」を手伝ったりもしていた。(ジャニーのインタビュー記事による「宮武は喜多川家の親戚」という説は誤報)
そしてメリーはロサンゼルス市立短期大学 (Los Angeles City College。2年制)[注 1]に進学し、卒業。 弟のジャニーは、ハウスボーイをしながらロスの高校、そしてメリーと同じロス市立短期大学を卒業した。優秀だったマー坊は、ハウスボーイをしながらUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の理系学部に進んだ。
1952年、アメリカ国籍だったジャニーとマー坊には兵役義務があり、当時勃発していた朝鮮戦争に参加するため、アメリカ陸軍に徴兵される。マー坊はパラシュート部隊で優秀と認められ、幹部付きの当番兵となった。
一方ジャニーは、アメリカの情報機関「CIA (Central Intelligence Agency、中央情報局)」[注 2]を介して韓国の戦災孤児に英語を教えながら諜報活動する工作員としての任を命ぜられ、広島県江田島市の海軍兵学校跡地を使用した米軍の学校「江田島学校」(1955年一杯まで米軍および英連邦軍などが使用)で朝鮮語を習得するため、1952年に通訳の助手という肩書きで再来日する。
そして10ヶ月で朝鮮語をマスターした後、韓国の板門店 (発音:パンムンジョム、日本語読み:はんもんてん) に派遣され、1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教えた。1953年に除隊後は、アメリカへ戻らず東京に居住。
1956年、京マチ子が映画『八月十五夜の茶屋』に主演するためにアメリカへやって来た際、メリーが付き人を務めた。
ジャニーの再来日から遅れること5年、メリーも1957年に再来日。ホステスなどを経て、1959年頃より作曲家・服部良一の妻と共に、四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角(四谷3-1-3)にてカウンターバー『スポット』の経営を始める。ワシントンハイツに住んでいたジャニーがPX(駐留軍ストア)から仕入れてくるウイスキーやバーボンを気軽に楽しめる店として人気を博し、常連客には力道山、映画プロデューサーの藤本真澄、政財界のお偉いさんなどが居た。
弟のジャニーが1964年6月に芸能事務所「ジャニーズ事務所」を興すと、メリーもバーを閉店して事務所の経理を担当するようになった。また、ジャニーズのマネージャーや、フォーリーブスのスタイリストなども受け持った。
以来、タレントの扱いやショーのプロデュースをする弟のジャニー社長に代わり、自らは副社長という立場で会社経営の全般を取り仕切るようになった。
1966年7月20日、かつて経営していたカウンターバー『スポット』の馴染み客だった5歳年下の作家・藤島泰輔との間に一女(藤島ジュリー景子)をもうける。
ただ、藤島には当時妻が居たため、その不倫問題をマスコミに報じられたりもした(『週刊新潮』1974年9月5日号、他)。
藤島は長かった夫婦別居生活の末、1972年に前妻・朋子(高浜虚子の孫娘)と正式離婚。その後、メリーと再婚し、作家仲間の間ではおしどり夫婦として知られた。
2019年7月9日、弟のジャニー喜多川が、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血で逝去。87歳没。
同年9月27日、ジャニーズ事務所の代表取締役会長にメリーが就任。
メリーの父・母・弟(眞一)が眠っていた和歌山県北部の高野山真言宗総本山金剛峰寺の奥之院参道の「喜多川家之墓」(家紋は桔梗)を、2019年6月にメリーが億単位の金をかけて新たに建て替え、同年7月9日に逝去した弟のジャニーもそこに入ることとなった。
そしてそのすぐ左隣には、藤島泰輔の墓であり、メリーや藤島ジュリー景子の生前墓でもある「藤島家之墓」も同時に建立(豊島区の霊園からの改葬)された。
2020年9月4日、ジャニーズ事務所の名誉会長にメリーが就任。これに伴い、代表取締役会長を退任し、代表権は無くなった。
2021年8月14日 午前7時35分、肺炎により都内の病院で逝去。93歳没。
高齢だったメリーは病院で生活していたが、直近まで体調に大きな変化はなく元気な様子だったため、急死だった。そしてメリーの最期を看取ったのは、娘のジュリーと、孫娘(ジュリーの長女)だった。コロナウイルスが猛威を振るう中での肺炎ということもあり、メリーも感染が疑われたが、関係者によると感染は無かったとのこと。
葬儀告別式はメリーの遺志により、近親者と所属タレントのみで執り行われた。そして弟のジャニー喜多川の時とは違い、御香典・御供花・御供物の儀は行われなかった。
メリーは生前、「私はタレントを守るためなら、いくらでも悪人になります」と語っていたように、所属タレントが引き起こしてきた数々のスキャンダルを、強大な権力を用いて長年に渡って握り潰してきた。
しかし、中森明菜に対する「金屏風事件」の首謀者だったり、国民的グループだったSMAPを2016年に解散させた元凶の人物でもあるため、晩年はバッシングが絶えなかった。しかもメリーが逝去した日付「8月14日」は、奇しくもSMAPが5年前に解散することを発表したのと同じ日だったため、ネット上では「因縁すぎる」、「SMAPを潰した呪い」などと話題になった。
メリーの訃報に対し、ジャニーズOBや木村拓哉・工藤静香夫妻らが追悼の意を示す中、メリーに対して遺恨の残る中居・稲垣・森・草彅・香取からは、当然ながら追悼のコメントは出なかった。
その後、高野山真言宗総本山金剛峰寺の奥之院参道にある「藤島家之墓」にメリーの遺骨が納骨された。戒名は「芳樹院慈溫泰蓮清大姉」。霊標の行年は数え年で「九十五才」と彫刻。
人物
- 子供の頃の愛称は「ヤッちゃん」。
- 性格は活発。フレンドリーで話上手な社交家。また、非常に気が強くて物怖じしない性格。夫の藤島泰輔はメリーのことを、「瞬間湯沸し器型の感情の激しい人だが、実に“女”である」と評している。
- 豊川誕、ひかる一平の芸名はメリーが命名した。
- 大食漢で酒豪。肉食で野菜はほとんど食べない。アワビも大好物。嫌いな食べ物は魚。
- 好きなブランドはエルメス、シャネル。
- 風水、四柱推命に凝っていた。
- ジャニーズ事務所においては、メリーが経営権を握っていた。取り引きや接待などの上手さに定評があり、メリーが白と言えば黒も白になってしまうほど、芸能界において多大な影響力を持っていた。
少しでも気に入らないオファーに対しては、「その条件ならうちのタレントは出しません」と言って、無理難題を突き付けることもしばしば。それだけならまだしも、よその芸能事務所に所属するタレントの中に気に入らない者が居れば、「〇〇を降板させないなら、うちのタレント全員引き揚げます」と言って、テレビ局や出版社に圧力をかけて脅すのが常套句だった。
『NHK紅白歌合戦』の白組司会を、2010年から2014年まで嵐が5年連続で務めていた中、飯島三智(SMAPのチーフマネージャー)がNHKの幹部・三溝敬志に根回しをし、2015年の白組司会はSMAPで決定していた。ところが、それを知ったメリーが「SMAPにやらせるなら、ジャニーズはタレントを出さない!」と激怒。メリーはNHKの籾井勝人会長に直談判し、SMAPの司会を中止にさせている。おまけにその年の紅白には、メリーが寵愛してやまない近藤真彦を白組のトリにまでねじ込んだ。
また、V6はグループの活動が停滞していた2010年一杯で本来は解散する予定で準備を進めていたが、公式発表をしていない段階で『週刊文春』(同年2月18日号)に解散情報を先にすっぱ抜かれてしまい、メリーが、「どうして書いてはいけないことを書くの! 文春に書かれた通りにはやらない!」と激怒。
『日刊サイゾー』(同年3月12日付、4月19日付)、『東京スポーツ』(同年3月17日付)でも、V6の解散やメリーについての新たな追加記事が次々と出されたが、勝気なメリーの思惑通り、最初の文春のスクープを打ち崩して無効化するべく、解散は急遽中止となった。(V6はその後、10年以上の時を経て、2021年11月1日をもって正式に解散することとなった)
他にも、芸能記者の青山佳が近藤真彦と中森明菜の熱愛情報を報じた際には、メリーは青山を事務所に呼び出し、4時間以上に渡って怒鳴り続けている。
かつて郷ひろみがジャニーズ事務所を去った時にも、郷を憎らしく思ったメリーは、郷の担当プロデューサー・酒井政利を赤坂の路上で捕まえて、「酒井さん! 郷のプロデュースから手を引いてよ!」と、行き交う人々をものともせず、凄まじい剣幕で迫っている。常に感情をむき出しにするメリーに何度も困惑させられた酒井は、メリーについて次のように評している。
「猛女ですね。フォーリーブスの北公次が事務所を辞める際にも、本人の決意を動かせないと知ると、今度は臆面もなく潰しにかかるような、子どもじみた部分がメリーさんにあったのは確かです。田原俊彦にしても、SMAPにしても同じようなことがありましたね。言い方を変えれば、ファミリーである限りはどこまでもタレントを愛する、一本気な性格なんですよ。もう、あんな方は出てこないでしょうね」(2021年10月9日付、文春オンライン)
こうした厳しさの一方で、メリーはテレビ局の幹部らをライブや舞台に招待するのは当たり前で、時には嵐のハワイ公演にも高級ホテル付きで招待するなどの豪華な接待を繰り返した。
六本木の自宅マンションにも各局の首脳をよく招き、高級レストランのシェフも一緒に呼んで、豪勢な料理を振る舞った。2006年10月に嵐の櫻井翔が日本テレビの『news zero』のキャスターに就任したのも、このメリー宅の宴で内定したものだった。幹部クラスだけではなく、メリーは現場スタッフにも20万円以上する高級スーツのお仕立て券を配るなど、常に他の芸能プロとは桁違いの施しをし、アメとムチを使い分けながら、マスコミ各社を懐柔、コントロールした。 - メリーは、ジャニーズ事務所を円満に退所しなかった者に対しても、徹底的に容赦しない面があった。
1993年6月30日、男闘呼組が突如グループが活動休止となり、予定されていたその年の夏のコンサートツアーも、全公演のチケットが完売だったにもかかわらず全て中止となってしまった解散劇。(詳細は男闘呼組の項を参照)
1994年春、光GENJIのメンバーが7人揃って、メリーの自宅にアポ無しで突然訪問し、解散したい旨を直訴してきた。何とかメンバーを説得した結果、大沢樹生・佐藤寛之の2名だけの脱退ということに抑えたが、この脱退劇を良く思わないメリーは、1994年夏に大沢・寛之が出演した最後のコンサートツアーにおいて、2人の出番をほとんど無くしてしまっている。
また、1996年にオートレース選手に挑戦するため、事務所と喧嘩別れする形でSMAPを脱退した森且行についても、「森などという人間は最初から(SMAPに)存在しない!」と強烈なコメントを自ら発表し、テレビ局などのマスコミ各社に森の映像を流さない様に圧力をかけている。(詳細は森且行の項を参照)
こういった姿勢は昔からで、1981年に日本劇場の閉館公演「サヨナラ日劇」が行われた際、かつて「日劇ウエスタンカーニバル」シリーズで長年に渡り活躍したフォーリーブスも、再集結して出演させたいと検討していた日劇の支配人に対し、「死んだ子たちを蘇らせてなんになるのよ! 生きてる連中でやりましょう!」と言い、フォーリーブスの再集結案を中止させている。
なお、メリーもジャニーも、ジャニーズOBたちの冠婚葬祭にも一切出席せず、花輪を出すこともなかった。 - メリーは生前、森光子と年に1回のペースでヨーロッパ旅行を楽しんでいた。1回の旅行で2人で3000万円ほどかけて豪遊し、その費用のほとんどをメリーが持っていた。
他にも、高倉健、橋田壽賀子、石井ふく子、和田アキ子、竹内まりや、泉ピン子、大地真央、黒木瞳、工藤静香などとプライベートで親交が深かった。
更にメリーは政財界にも大きな人脈を持っており、中曽根康弘、橋本龍太郎、氏家齊一郎らとも親交が深かった。
なお、和田アキ子はメリーのことを「メイ子」、ジャニー喜多川のことを「ジャニ子」という愛称で呼んでいた。 - “芸能の神”を祀ることで知られる「豊川稲荷東京別院」を古くから贔屓、信奉しており、その「豊川稲荷」の名から引用して、豊川誕に芸名を命名した。1997年にKinKi KidsがCDデビューの記者会見を行った際も、豊川稲荷が会場に選ばれた。
また、大晦日から元旦にかけて行われる「ジャニーズカウントダウンコンサート」を終えた所属タレントたちを、そのまま豊川稲荷へ毎年初詣に行かせてもいた。 - ジャニーズのタレントが舞台上で素早く衣装を変える“早着替え”に使われる「早変わり衣装」の実用新案を、1976年に出願している。
- 2011年、中華人民共和国の温家宝国務院総理の要請で実現した北京公演のために訪中したSMAPが、人民大会堂で対日外交担当者の唐家璇 と会見した際には、飯島三智とともにメリーも立ち会った。
- 2015年時点でのメリーの愛車は、エンジ色のマイバッハ。内装は総革張りの超豪華仕様で、推定価格は一億円以上と見られている。その前に乗っていた愛車はベントレー。
- 2016年に「SMAP解散騒動」が巻き起こった際、その元凶であるメリーに対し、同年8月、SMAPの女性ファンと思われる人物によって、夜遅くにメリーの自宅マンションのエントランス付近の床に、人糞を撒き散らされる被害に遭う。(同年8月26日付のビジネスジャーナルより)
- 2016年12月27日付の東京スポーツにて、国民的グループのSMAPを空中分解(解散)させた元凶として、同紙が主催する「ゲス・オブ・ザ・イヤー 2016」の第1位にメリーが選定された。
- 生前は常に和歌山県の高野山の水を取り寄せて飲んでいた。
- 姪(メリーの弟・眞一の娘)が、福岡市内でピアノ講師をしている。
参考文献
- 高松宮宣仁親王殿下 高松宮妃喜久子殿下 奉迎記念寫眞帖(1931年〔昭和6年〕11月3日発行、帝國印刷所出版部。非売品)
- 羅府新報(ロサンゼルスの日系新聞。1933年〔昭和8年〕8月25日付)
- 佛教東漸七十年記念出版「日本佛教渡米史」(常光浩然 編、1964年5月、佛教出版局)第四章・各宗派の布教活動 第四節「高野山真言宗」
- 髙野山米國別院五十年史 1912-1962
(風早勝一 著、川島宏之 編、1974年1月、高野山米国別院)
「喜多川諦道師の時代」の章(全10ページ) - ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~
(和泉ヒロシ 著 〔後の小菅宏〕、1976年6月、オリオン出版) - 女性自身(1976年5月6日号、光文社)インタビュー記事
- ヤングレディ(1978年2月14日号、講談社)インタビュー記事
「豊川誕、また1人のアイドル歌手が消える!? その裏の事情」 - 週刊平凡(1978年4月27日号、平凡出版)顔写真付きのインタビュー記事
「豊川誕、再起に重大障害! 前代未聞、芸名が使えない」 - 週刊現代(1981年4月30日号、講談社)
「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」(インタビュー記事。文:元木昌彦) - 週刊文春(1981年5月28日号、文藝春秋)「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」
- Free(1983年11月号、平凡社)残間里江子によるロングインタビュー「たのきんのビッグ・ママ」
- FOCUS(1990年1月19日号、新潮社)「明菜マッチ会見を操った黒幕のソロバン “ミソギ”のための大イベント」
- アメリカ開教 昭和の密教東漸(高橋成通 著、1990年4月、東方出版)
- ワシントンハイツ ~GHQが東京に刻んだ戦後~ 第14章「アイドル誕生」(秋尾沙戸子 著、2009年7月、新潮社)
- 週刊文春(2015年1月29日号、文藝春秋)5時間に及ぶインタビュー取材
同インタビューは『SMAP 週刊文春記者が見たSMAP解散の瞬間』(鈴木竜太 著、2016年12月、文藝春秋・文春ムック)にも完全収録された。 - 週刊新潮(2016年1月28日号、新潮社)100分間に及ぶインタビュー取材
- サイゾー(2016年3月号、サイゾー)
「SMAP報道の罪と罰 ジャニーズとメディアの“歪”な絆 SMAP解散報道とマスコミの死 メリー喜多川徹底解剖! ジャニーズ御用番付! 解散報道の真相と深層!」 - 高野山米国別院開創百周年 1912-2012(2016年、WEB資料)
- 週刊文春(2016年9月1日号、文藝春秋)インタビュー記事
「SMAPを潰したメリーと工藤静香 メリー独白 未公開部分 “飯島 あんたは社員、ジュリーは私の娘”」 - AERA(2021年8月30日号、朝日新聞出版)藤島メリー泰子さんから記者への手紙「人生を楽しみましょう」
- 週刊文春(2021年9月2日号、文藝春秋)
「本誌だけが書ける メリー喜多川「光と影」弟の少年「性虐待」をかばいSMAPに近親憎悪」 - 週刊朝日(2021年9月3日号、朝日新聞出版)「追悼 藤島メリーさん 黒柳徹子さんが語る素顔」
- サンデー毎日(2021年9月5号、毎日新聞社)山田美保子「厳しいけれど優しかったメリーさん」
- 週刊女性(2021年9月7日号、主婦と生活社)
「メリー喜多川さん(享年93)60年続けた「衣装のおばさん」が滝沢秀明(39)に託した遺言」 - 女性自身(2021年9月7日号、光文社)
「〝ジャニーズの母〟メリーさん追悼秘話 嵐を蘇らせた叱声「人間を生きろ」」 - 週刊実話(2021年9月9日号、日本ジャーナル出版)「メリー氏死去 ジャニーズが直面する危機」
- 柳田由紀子「追悼メリー喜多川 知られざるアメリカ赤貧時代」(2021年9月11日、文春オンライン)
- #1「旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」
- #2「親も金もなく、弟ジャニーとも離れ離れに!」メリー喜多川の知られざる《LA家政婦暮らし》現地証言」
- 文藝春秋(2021年10月号、文藝春秋)
渡邉庸三「「ジャニーズ女帝」メリーさんに叱られた「飯島を呼んで!」それが10時間説教の始まりだった」 - 柳田由紀子「真珠湾攻撃から80年」(2021年12月8日、文春オンライン)
- #1「《秘蔵写真》「FBIに捉えられ、便器に頭を入れて寝た父」“もうひとりのジャニー喜多川”を直撃」
- #2「「夢は『美 少年』を高野山米國別院の舞台に立たせること」LAでブロマイドを売っていたジャニー喜多川の青春時代」
- 女帝 メリー喜多川(小菅宏 著、2022年4月15日、青志社)
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