デビュー:1988.04
デビュー曲:Can’t Stop!! -LOVING-(1991.09.09)
SMAP(スマップ)は、数多くの功績を残し、トップアイドルとして長きに渡り老若男女に愛され、その認知度の高さから「国民の記憶」とまで称された、日本の芸能史上、類を見ない国民的グループ。「公益財団法人 東日本大震災復興支援財団」発起人。
略称:マップ(語尾が上がる発音)、スマ。ファンネーム:マッパー(語尾が上がる発音)、スマヲタ。
1988年4月結成。事務所幹部の派閥争いに巻き込まれ、2016年12月31日に解散。前身グループは「スケートボーイズ」。
[メンバー]
- 中居正広
1972年8月18日生まれ(50歳)、神奈川県藤沢市出身。愛称:中居くん、ヒロちゃん。イメージカラー:青(ビストロSMAPでのみピンク)。 - 木村拓哉
1972年11月13日生まれ(50歳)、東京都葛飾区柴又出身 → 大阪府箕面市 → 千葉市美浜区。愛称:キムタク。イメージカラー:赤。 - 稲垣吾郎
1973年12月8日生まれ(49歳)、東京都板橋区高島平出身。別名義:Goro Inagaki、&G(アンジー)。愛称:ゴローちゃん。イメージカラー:ピンク(ビストロSMAPでのみ青)。 - 草彅剛
1974年7月9日生まれ(48歳)、愛媛県西宇和郡三瓶町(現・西予市)出身 → 埼玉県蕨市 → 埼玉県春日部市。別名義:チョナン・カン(초난강)。愛称:つよポン(考案者は森且行)、つよ、ナギツヨ。イメージカラー:黄。 - 香取慎吾
1977年1月31日生まれ(46歳)、神奈川県横浜市鶴見区出身。別名義:慎吾ママ、ハットリくん、両さん。愛称:慎吾ちゃん。イメージカラー:緑。
[脱退メンバー]
- 森且行
1974年2月19日生まれ(49歳)、東京都足立区出身。イメージカラー:白。
[初期サポートメンバー(1988年)]
- 松元治郎、岩佐克次、坂本昌行、佐藤功、国分太一
[追加候補メンバー(1990年)]
[関連ソロ・ユニット]
[リーダーについて]
SMAPにはリーダーが存在しない。
中居正広が生年月日が一番早く、ジャニーズに入所したのも一番早く、更にグループを仕切るのも上手かったため、結成当初から誰が見ても中居がリーダーという状態で、実際に「リーダーは中居」と呼ばれる機会も多かったが、中居本人は同い年である木村への気遣いもあり、「自分はリーダーという訳ではない」と度々否定している。ただ、周りから「リーダー」と言われても最初は「SMAPにリーダーはいません」と言っていたが、だんだん面倒くさくなったのか否定しなくなっている。
なお、1991年の夏にテレビ朝日のバラエティ番組『桜っ子クラブ』内で、年長組の中居と木村が、プールで円柱に抱きつき、ホースで水をかけられ、どちらが長く抱きついていられるかという対決が行われた。結果は中居が勝利したのだが、このシーンが後にテレビで再放送された際、その編集の仕方が「SMAPのリーダーを決める対決」だったかのように放送されてしまったため、「この対決によって中居が正式にリーダーとなった」と錯覚してしまったファンが多い。リーダーを決めることを趣旨とした対決は、実際は行われていない。
1988年4月、「スケートボーイズ」の中から選抜された6名で「SMAP」を結成。
「SMAP」というグループ名はジャニー喜多川による命名で、「Sports Music Assemble People」(スポーツ、音楽、集合、人々)を意味する造語である。 SMAPの前身グループ「スケートボーイズ」のキャッチコピーが、「Sports Music Assemble People」、「SMAP時代のスケートボーイズ」だった。
しかしこれは後付けによる由来であり、当初の本来の由来は、「GENJIの分身、弟分グループ」という意味で、GENJIのメンバーそれぞれのイニシャルから取られたものである。
佐藤のS、諸星のM、赤坂のA、そして山本淳一の小学3年時からの愛称「バンジー」の元々の由来「パンジー(チンパンジーに似ていたから)」のPを合わせて、「SMAP」となった。
(正確には、山本の小学3年時からの愛称「バンジー」を、ジャニーが「パンジー」と思い違いしていたためにPとなった。そのため、後から「バンジー」が正解だと知ったジャニーは、「Youってチンパンジーに似ているから“パンジー”じゃなかったの? 信じられない。You、今から“パンジー”にして!」という強引な発言まで山本にしている)
ちなみにジャニーは、SMAP解散後の2017年1月13日のインタビュー取材で、「SMAPの頭文字を取ると、『すばらしい、MEMORIES、ありがとう、POWER』。だから終えちゃっていいんじゃないか。彼たちは一人一人やっていけるっていう自信がついたっていうことですよね」と発言し、新たなSMAPの頭文字の解釈を提示した。
1990年春、SMAPは既にテレビや雑誌で活躍していたが、ここに来てジャニー喜多川は突如、「平家派」や「少年忍者」で経験を積んできた古川栄司をSMAPに加え、SMAPも光GENJIのような7人組にし、古川、中居、木村の年上組と、4人の年下組という構図に変えてみたいというトンデモ案を発案。
そこでジャニーが古川に、「忍者として今すぐにCDデビューするか、SMAPのメンバーになって1年後にCDデビューするか、Youどうしたい?」と問いかけた結果、古川が忍者を選んだため、SMAPの増員計画は中止となった。
1991年1月1日、日本武道館で1stコンサートを行い、CDデビュー前にもかかわらず、約3万人を動員。
同年9月8日、台風15号の大雨の中、西武園ゆうえんちにてデビューイベントを開催。
これを皮切りに、同月中に札幌、福岡、名古屋、神戸でもデビューイベントを開催し、延べ5万人のファンと握手をした。
同年9月9日、シングル『Can’t Stop!! -LOVING-』でCDデビュー。
しかし当時は、アイドルにとって最も活躍の場だった音楽番組が次々と無くなっており、「アイドル氷河期」と呼ばれる時代に入っていたため、SMAPはバラエティ番組やテレビドラマへ本格的に進出していくこととなる。
同年12月31日、『NHK紅白歌合戦』にデビュー曲で初出場。
1992年4月、フジテレビ『夢がMORI MORI』にレギュラー出演。同番組における、当時のアイドルとしては異例であった本格的なコントなどがウケて、知名度と人気を獲得していった。
1994年、SMAPにとって12枚目のシングル『Hey Hey おおきに毎度あり』で、自身初のオリコン1位を獲得。また、1995年に『24時間テレビ「愛は地球を救う」』の番組パーソナリティーを務めた。
1996年からフジテレビ系『SMAP×SMAP』(略称:スマスマ)が放送開始。テレビドラマ、バラエティ番組、コンサートと多方面に活躍し始めた。
この年の5月、森が幼い頃からの夢であったオートレース選手に転身するため、SMAPを脱退。同時にジャニーズ事務所も退所して、芸能界からも引退した。
1998年、スガシカオが作詞を提供した『夜空ノムコウ』が自身初のミリオンヒットを記録、のちに中学生の音楽の教科書に掲載。
2000年、『らいおんハート』が2度目のミリオンヒットを記録した。
2003年、『世界に一つだけの花』がダブルミリオンを記録。
『SMAP×SMAP』のコーナー「BISTRO SMAP」に宇宙飛行士の毛利衛、野口聡一が出演した際(2002年1月21日放送分)、料理対決の勝者(稲垣・香取ペア)の料理と、野口が希望して草彅が作ったカレーが、野口聡一とともに2005年7月26日、スペースシャトル「ディスカバリー号」で打ち上げられた。更にこのディスカバリー号では、モーニングソングとして『世界に一つだけの花』が一度だけ使用された。
2011年設立の「公益財団法人 東日本大震災復興支援財団」に、孫正義、王貞治と共にSMAPも発起人として名を連ねる。以降、フジテレビのレギュラー番組『SMAP×SMAP』にて、毎回放送の最後にSMAPが義援金の告知を行う。(この告知は2016年12月26日放送の番組の最終回まで続けられた)
2016年1月13日、SMAPが解散危機にあることが、突如スポーツ紙2紙の一面で報じられた。
ジャニーズ事務所幹部の内紛により、これまでSMAPを育て、支えてきたチーフマネージャー・飯島三智が事務所を退社することになり、SMAPのメンバーの内、4名は一緒に事務所を出て飯島に付いていく意向を示したが、妻の工藤静香から強く説得された木村は、「飯島さんだけ辞めればいい」として、ジャニーズ事務所に残ることを主張していた。この木村夫妻の判断により、SMAPは空中分解状態となる。
以降、スポーツ紙や週刊誌、ワイドショーなどで連日のように様々な報道がなされ情報が錯綜していたが、解散危機発覚から5日後の1月18日、メンバー5人がフジテレビ『SMAP×SMAP』に生出演し、世間を騒がせたとして謝罪。解散も一旦回避された。
ただしこの生出演は、SMAPの目の前でメリー喜多川と藤島ジュリー景子の事務所両副社長が厳しく監視をしており、ジャニーズ事務所と木村側を持ち上げる内容の決められたセリフを無理矢理に言わされたものであった。
更に、木村をセンターに配置したことや、まるで喪服姿の様に、黒スーツに黒ネクタイを着用させられ、木村だけが明るい色のネクタイを締めていたこと、そして、一番端の位置に追いやられたグループのリーダー的存在の中居が、この理不尽な状況に対する悔しさから自分を抑えるためか、てのひらを必死につねっている痛々しい姿も映し出され、ファンの間では「公開処刑」、「公開パワハラ」と呼ばれた。
この回の『SMAP×SMAP』の最高瞬間視聴率は、関東地区が37.2%、関西地区は33.8%で、いずれも5人が生放送で語ったメッセージの最後の部分にあたる22時22分に記録した。この生出演によって、TwitterやYahoo!JAPANなどにアクセスが集中し、一時繋がりにくい状態となった。
オンライン署名サイト「Change.org」では1月13日の解散報道直後から「SMAP存続」を願う署名活動が行われたほか、『SMAP×SMAP』での謝罪コメントの放送後には、SNS上における事務所側を批判する意見の表れとして、事務所の副社長・メリー喜多川の解任を求める署名活動も行われた。
解散騒動後も、レギュラー番組『SMAP×SMAP』の収録・放送は続けられたが、上記の「公開処刑」によって木村と他4名の間の溝は更に深まってしまい、誰も木村には絡まず、目すら合わせないという異常な状況が毎週テレビに映し出された。
木村以外の4名に対しては、事務所スタッフなどが活動存続のために話し合いを重ねてきたが、4人の解散の意志は固く、同年8月14日の未明、ジャニーズ事務所が「SMAPは2016年12月31日を持ちまして解散させていただくことになりました」と公式発表。解散後はメンバー5人ともジャニーズ事務所に籍を残して個人として活動していく予定であることも発表された。そして同時に、SMAPのファンクラブの新規入会や会員更新も停止された。
この解散決定の公式発表を受け、同年9月にファンが有志団体「5☆SMILE(ファイブスマイル)」を結成し、インターネットなどを通じてSMAPの存続を求める署名を呼びかけ、同年10月31日までに37万3515筆を集め、ジャニーズファミリークラブに手渡しで届けたが、解散が覆ることは無かった。
2016年1月の解散危機の報道以来、解散阻止を望むファンの間で、SMAPのシングル『世界に一つだけの花』の購買運動(通称:花摘み)が始まり、同年9月9日、ついに累計出荷数が300万枚を突破し、日本レコード協会よりトリプルミリオン作品に認定された。そして同年12月8日に売上数も300万枚を突破し、平成時代の日本で最も売れたシングル曲となった。
同年9月9日、SMAPのCDデビューからちょうど25周年の記念日であるこの日、東京新聞の朝刊の個人広告欄が、ファンによる祝福メッセージで埋め尽くされた。これは、ファンがTwitterで呼びかけて実現したものだった。ファンはその後も、同年11月13日の木村の誕生日、同年12月8日の稲垣の誕生日に同広告欄をジャックして祝福メッセージを送った。
また、SMAPがデビュー前日イベントを行った西武園ゆうえんちでは、2016年9月9日に「SMAP デビュー祝25周年パーティー」が行われることが正式決定していたが、オンライン署名サイト「Change.org」で募っていた参加希望者が4,000人を超えてしまい、イベントの開催が困難であるとして、同年8月18日に中止が発表された。イベントは中止になっても、9月9日の当日には平均入場数の6倍に及ぶ、約1,200人が来場。その9割以上がSMAPファンと見られた。これに合わせ、西武園ゆうえんち側の特別な計らいとして、SMAPの楽曲が園内で流され続けた。
同年12月23日、SMAPにとって常連番組であった『NHK紅白歌合戦』の出場辞退をジャニーズ事務所が発表。このため、同年12月26日放送のバラエティ番組『SMAP×SMAP 最終回スペシャル』(フジテレビ)で歌われた『世界に一つだけの花』が、SMAPのラストステージとなった。
解散直前の同年12月30日には、朝日新聞の朝刊に、8ページにも及ぶ全面広告でSMAPへの応援メッセージが掲載された。これは、ファン有志3人がクラウドファンディング(CF)で立ち上げた企画「SMAP大応援プロジェクト」によって、国内の購入型CFでは史上最多人数の1万3千人を超える支援者から集めた資金、約4千万円(当初の目標金額は1千万円)で実現した。
2016年12月31日、SMAPが解散。
前身グループの「スケートボーイズ」から数え、延べ29年以上におよぶ歴史に幕を閉じた。
2017年1月20日、ジャニーズ事務所の公式サイト「Johnny’s net」に、5人それぞれの“個人ページ”が新たに設けられる。
同年1月31日をもって、ジャニーズ事務所の公式サイト「Johnny’s net」に残っていた “SMAPのページ”が削除。
同年9月8日、稲垣、草彅、香取の3名が揃ってジャニーズ事務所を退所。なお、一緒に退所するはずだった中居は、ここに来てジャニーズへの残留に転じた。
2020年2月19日、中居が個人事務所「のんびりな会」を設立し、同年3月31日にジャニーズ事務所を退所。
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