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ジャニー喜多川

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分類ジャニーズ事務所

ジャニーきたがわ。1931年(昭和6年)10月23日生まれ、米カリフォルニア州ロサンゼルス出身。
日本名での本名:喜多川擴きたがわひろむ、米国名での本名:John Hiromu Kitagawaジョン・ヒロム・キタガワ、作詞時の別名義:JOHNNY.K。
ジャニーズ事務所、および関連会社のジャニーズ出版、ヤングコミュニケーション、つづきスタジオの旧代表取締役社長。ジャニーズアイランド旧代表取締役会長。ジェイ・ドリームの旧代表取締役社長。元・CIA工作員。
ロサンゼルス生まれの日系二世(両親共に日本人)。2019年7月9日、解離性脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血で死亡。87歳没。
姉はメリー喜多川

来歴

ジャニー喜多川の父親は、僧侶の喜多川諦道きたがわ たいどう。1898年(明治31年)に大分県で生まれた。(早生まれではない。また、1896年〔明治29年〕生まれと書かれた文献は誤り)
私立古義真言宗聯合高野中学林(当時の修業年限は5年)、私立真言宗高野山大学(修業年限は4年6ヶ月)卒業。

諦道は8歳で下稚児(少年修行僧)として真言宗系の寺に得度(出家)し、13歳で和歌山県高野山の普賢院ふげんいんの僧正に師事。やがて高野山で真言密教の開教師(導師)となるが、放蕩三昧で、自ら「やくざ」や「遊び人」と称する異色の坊主だった。
なお、「諦道は高校時代に野球で甲子園に出場した」と書かれた文献が存在するが、これは正確には誤り。諦道の高校(当時は旧制中学校)時代は1911年4月から1916年3月の5年間で、諦道は私立古義真言宗聯合高野中学林の野球部に所属し、1915年(大正4年)に開催された「第1回 全国中等学校優勝野球大会」(後の高校野球)の関西地区予選には出場したが、初戦相手である大阪の明星商業学校に10対0で大敗しており、全国大会の代表校には選出されていない。また、関西予選と全国大会が開催されたのは大阪の「豊中グラウンド」である(阪神甲子園球場の完成は1924年)。

諦道の師の僧正が大隈重信や後藤新平らと親しくしていたことから、諦道も海外への思いを強めるようになり、諦道を可愛がっていた和歌山市の有力者・大谷家(息子の大谷貴義〔1905年5月31日 – 1991年5月17日〕は宝石商として財を成し、児玉誉士夫と並んで「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた人物で、元首相の福田赳夫のパトロンでもあった)からの援助を受け、諦道は真言密教の布教のために1924年(大正13年)2月より世界一周の旅に出発した(当時25歳)。大谷家との繋がりは、元々、諦道の父母が大谷家で世話になっていたことがきっかけであった。

そして同2月、ロサンゼルスのリトル・トーキョーのサウス・セントラル・アベニューにあった「髙野山真言宗 髙野山米國別院」(1909年〔明治42年〕に渡米した富山県出身の青山秀泰を中心とし、愛媛県人一世らが大半の発起人となって弘法大師〔空海〕を信仰するために1912年〔大正元年〕11月28日に「米國髙野山大師教会」の名で発足)の大使教会に到着。

ここではほんの2~3ヶ月だけ助法し、また世界一周旅行を続けるつもりだったが、当時の主監(最高責任者)が急に日本に帰国することになったため、急遽、諦道が第三代主監となる。以後、1933年までの9年間、米国大使教会の運営を務めた。
(ネット上では諦道が居た場所を、同じリトル・トーキョーの「真宗大谷派 東本願寺ロサンゼルス別院」とする記述も多数あるが、それは誤り)

諦道は活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役となる。ハリウッドのランドマーク「グリフィス天文台」の麓に居を構え、大阪に居た妻・江以えい(栄や栄子は誤り)も呼び寄せた。
そして生まれたのが、泰子やすこ(メリー喜多川)、眞一まさかず(愛称:マー坊。1930年生まれ。背が高く無口な性格)、ひろむ(ジャニー喜多川。愛称:ヒー坊)の三姉弟だった。

諦道は仏事の他にも、奉納演芸を開催したり、ロスに寄港する日本海軍の歓待に尽力。若く薄給な日本海軍兵のための食事会も始めた。1930年5月27日に高松宮宣仁親王(後の海軍大佐)が、妻・高松宮妃喜久子(旧名:徳川喜久子。徳川慶喜の孫)と共にサンフランシスコに立ち寄って日系移民たちの前でスピーチを行った際には、奉迎会委員も務めた。

更に諦道は婦人会も設立し、毎週金曜日に寺院で婦人会を集めた料理教室を開いたり、日曜日にはサンデースクールとボーイスカウトも始めた。ボーイスカウトは第79隊(後に第379隊に改称)で、日系人少年33人で1931年に結成。(正式発足日は1932年2月7日。ネッカチーフには胎蔵曼荼羅たいぞうまんだらの蓮台を朱色に染めてマークにし、その朱色を「慈悲の精神」の象徴とした。この79隊は、世界恐慌当時の反日の偏見に対し、日系人の子どもたちに自信をつけさせた他、1934年2月11日にはフランクリン・ルーズベルト大統領から表彰され、「ルーズベルト大統領賞」を受賞した)

また、ジャニーの母・江以は日本舞踊の名取だったため、婦人会では日舞や踊りの練習、発表会が頻繁に行われていたので、諦道は婦人会の力を借り、違う宗派も集めた盆踊り大会を開催した。(この盆踊り大会は、1934年よりリトルトーキョーで毎年8月に行われるフェスティバル「二世週日本祭にせいしゅうにほんまつり」へと発展していった)

当時はまだ日米開戦前だったため、喜多川一家は日系移民の強制収容所に送られることもなく、1933年7月26日、就学前の3人の幼い子供たちに日本の教育を受けさせるため、サンフランシスコ港から貨客船「秩父丸」に乗って横浜港に到着し、大阪に移り住んだ。諦道は多くの教会員や一般同胞から敬愛されており、日本に帰国する際には引き止め運動まで起こった。(ネット上ではジャニーやメリーがアメリカで強制収容所に収容されていたとする記事が多数存在するが、これも誤報)

諦道は道頓堀にある高野山真言宗の寺「法案寺」の住職の世話で、後にプロ野球チーム「ゴールドスター(後の「千葉ロッテマリーンズ」)」のオーナーとなる橋本三郎の下で働くようになった。
翌1934年5月24日、母・江以が26~27歳の若さで京都で逝去。戒名は「真乗院芳室妙栄大姉」(霊標の行年は数え年で「二十八才」と彫刻)。以来、メリーが2人の弟の母親代わりとなった。

やがて第二次世界大戦が始まり、1942年(ジャニーは当時10歳)、父・諦道だけが大阪に残り、三姉弟は、和歌山市の有力者・大谷家が和歌山県東牟婁郡勝浦町(後の那智勝浦町)に持っていた島「中ノ島」の南紀勝浦温泉に身を寄せて疎開。ジャニーはこの「中ノ島」から国民学校初等科(旧尋常小学校)へ、更に、坊主頭に詰襟の制服を着て旧制中学校へと通った。中学2年の初夏、ジャニーは一人で大阪に遊びに行った帰りに、1945年7月9日(月曜)深夜から7月10日(火曜)未明にかけて、和歌山市街にて「和歌山大空襲」に遭遇したが、無事に逃げおおせた。

一方、三姉弟と離れて大阪で暮らしていた父・諦道は、橋本三郎が1946年2月に大阪で創設したプロ野球チーム「ゴールドスター(翌1947年に「金星スターズ」に改称)」のチームマネージャーを、1948年2月まで2年間務めていた(当時のチーム監督は坪内道則)。

その後、諦道は橋本三郎の親族が経営する大阪の甘味処に居候。続いて、同じく橋本の親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候するようになり、やがて1974年4月10日にそのまま「杵萬」で逝去。75歳没。
葬儀は大阪の三津寺で盛大に執り行われ、僧侶も多数参列したが、ジャニーやメリーが姿を見せることは無かった。墓は和歌山県北部の高野山真言宗総本山金剛峰寺の奥之院参道に「喜多川家之墓」として建立(家紋は桔梗)。戒名は「阿闍梨諦道大和尚不生位」(霊標の行年は数え年で「七十七才」と彫刻)。
なお、諦道は生前に多くの書を残しており、「寿」の字が書かれた掛け軸が、京都府長岡京市「楊谷寺(通称:柳谷観音)」の上書院の2階の床の間に飾られている。

1949年に、「日本は敗戦でめちゃくちゃだから、学校はアメリカの学校に行った方がいい。市民権(米国籍)も無くなってしまう」という諦道からの意見で、同年11月12日、三姉弟のみで横浜港から米軍のLST(軍用船)の「W.H.ゴードン将軍号」(船室はもっとも安価な三等)に乗って渡米し、同年11月24日にサンフランシスコ港に到着し、再びロスに移り住む(当時、メリー:21歳、マー坊:19歳、ジャニー:18歳)。

ロスに着いた三姉弟はまず、リトル・トーキョーの隣町に住む髙野山米國別院の総代の家を頼って間借りした。

しかしそれほど広い家でもなかったため、やがて三姉弟は別の3ヶ所の知人の家を間借りすることで、それぞれ分かれて住むようになった(ジャニーが身を寄せたのは散髪屋)。
ジャニーはロスの高校に通って英語を学びながら、地元の老舗劇場[注 1]にて音楽監督 [注 2]のアシスタント(雑用係)のアルバイトを経験したり、別の家庭に移り住んでハウスボーイ(住み込みでの家政夫)にもなった。また三姉弟は、別院の檀家でもある有名な日系写真家・宮武東洋(1895年 – 1979年、香川県出身)がロスのリトル・トーキョーで経営していた写真館「宮武寫眞館」を手伝ったりもしていた。(ジャニーのインタビュー記事による「宮武は喜多川家の親戚」という説は誤報)
高校卒業後は、姉のメリーと同じロサンゼルス市立短期大学 (Los Angeles City College。2年制)[注 3]へ進学。優秀だったマー坊は、ハウスボーイをしながらUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の理系学部に進んだ。

ちょうどその頃、終戦後で劇場などが少ない時期だったこともあり、「高野山米国別院」の新寺院(1940年8月完成。リトル・トーキョーのイースト1stストリート342番地)の説教用の集会場「高野山ホール」(収容可能人数は約千人)のステージを、日本からやって来るスターたちが次々に利用するようになった。

まず最初に、田中絹代が1950年に日米親善芸術使節として訪れ、婦人会と交流した。
そして笠置シヅ子&服部良一(1950年6月1日~3日)、大河内伝次郎、山本富士子(1951年、初代ミス日本としての公式訪米)、古賀政夫、ディック・ミネ、高峰美枝子、霧島昇、二葉百合子、浪曲師・広沢虎造(1950年)、漫談家・大辻司郎など、錚々たる面々が寺院のステージを踏んだ。

ジャニーはその度に、現地コーディネーターと通訳を買って出ていた。
1950年5月に美空ひばり(当時12歳)が、人気絶頂だったボードビリアン・川田義雄(後の川田晴久。美空ひばりの師匠で育ての親)と共に「第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演」のために渡米した際も、高野山ホールのステージがロス公演の会場となったため、ジャニーはステージマネージメント全体を担当。川田の知遇を得ると共に、美空とも交流を深めた。これらのことが、やがてジャニーが日本芸能界への進出を志すきっかけとなった。

やがてジャニーはロス市立短期大学を卒業したが、アメリカ国籍だったジャニーと兄のマー坊には兵役義務があり、当時勃発していた朝鮮戦争に参加するため、1952年にアメリカ陸軍に徴兵される。マー坊はパラシュート部隊で優秀と認められ、幹部付きの当番兵となった。

朝鮮戦争後のマー坊は、徴兵で休学していたUCLAを卒業し、宇宙船関連の航空機メーカー「ノースアメリカン・ロックウェル・コーポレーション」のエンジニアとなった。
ロサンゼルスのガーデナに住みながらノース社でNASA関連の仕事をし、アポロの設計にも携わったが、1985年、くも膜下出血で倒れる。メリーが日本に連れ帰り、大阪の病院に入院させるも、翌1986年1月9日に55歳で逝去した。戒名は「樹徳院諦真法道居士」。霊標の行年は数え年で「五十七才」と彫刻。なお、ロサンゼルスで結婚した日本人女性の妻との間には娘をもうけている。

一方ジャニーは、アメリカの情報機関 「CIA (Central Intelligence Agency、中央情報局)」[注 4]を介して韓国の戦災孤児に英語を教えながら諜報活動をする工作員としての任を命ぜられ、広島県江田島市の海軍兵学校跡地を使用した米軍の学校「江田島学校」(1955年一杯まで米軍および英連邦軍などが使用)で朝鮮語を習得するため、1952年に通訳の助手という肩書きで再来日する。
そして10ヶ月で朝鮮語をマスターした後、韓国の板門店 (発音:パンムンジョム、日本語読み:はんもんてん) に派遣され、1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教えた。

なお、ジャニーはこうした自身の経験もあって、1960年から1962年と、1964年から1968年にかけて放送されていたイギリス制作のスパイドラマ『デンジャー・マン』(Danger Man。アメリカでの放送時は『Secret Agent』(シークレット・エージェント)に改題)を気に入っており、後にジャニーズ事務所のタレントによる企画ユニット「Secret Agent」を作り、ジョニー・リヴァースがドラマのアメリカ放送版で歌っていた人気主題歌『Secret Agent Man(秘密諜報員)』をカバーさせた。

1953年に除隊した後は、アメリカへ戻らず東京に居住。上智大学国際部(夜間部)[注 5]に社会人入学し、1955年にはバンドを結成して自らも芸能界へ参入した。大学卒業後にバンドは解散。

ジャニーはその後、英語力と滞米経験を買われ、在日米軍施設「ワシントンハイツ」の中に1955年に建てられた独身米軍士官向けの4階建ての宿舎(後の渋谷区神園町「国立オリンピック記念青少年総合センター」)に住みながら、アメリカ大使館勤隷下に組織された駐留米軍の一セクションである「在日アメリカ軍事援助顧問団(Military Assistance Advisory Group-Japan。通称:マグジェイ 〔MAAG-J〕。後の在日相互防衛援助事務所)」の事務職員として、旧防衛庁(霞が関)にあった顧問団の事務所に1958年より勤務。(1960年1月11日より防衛庁が霞が関から赤坂の檜町地区 〔後の東京ミッドタウン〕 へ移転。また、ワシントンハイツは1964年に東京オリンピックの開催を機に日本に全面返還され、ジャニーが住んでいた宿舎は五輪の女子選手村として使用されることになったため、ジャニーは1964年までにワシントンハイツから新宿区四谷3丁目へ転居した)

1960年頃、ジャニーは知人のつてで、豊島区椎名町の豊島区立真和中学校(2005年3月に閉校)の野球部で専属コーチを務めるようになる(当時の真和中学の卒業アルバムの野球部の白黒写真にはジャニーも一緒に写っている)。そして1961年の夏、神宮外苑で模型飛行機を飛ばして遊んでいた少年たちに「野球をやろうよ」声をかけ、自らも少年野球チームを新たに作った。近所の少年たち約30名を集め、当時自分の住んでいた東京の在日米軍施設「ワシントンハイツ」(後の代々木公園)のグラウンドで指導していた。
やがて、大学時代にバンドのマネジメントなども担当していた経験から、1962年、ジャニーにとって最初に手がけるアイドルグループ「ジャニーズ」を作り出し、タレントのプロデュース業に軸足を移していった。マネージメント活動が忙しくなると、軍事援助顧問団での仕事はずっと休職状態が続き、1966年、正式に退職した。

※ ジャニーズ事務所設立への流れは、「ジャニーズ事務所設立」を参照。

2019年6月18日 午前11時30分頃、ジャニーが渋谷区の高層マンションの最上階にあるペントハウスの自宅で、家政婦に体調の異変を訴え、病院に向かおうとしたところ、意識を失う。そして家政婦の119番通報で、同区広尾の日本赤十字社医療センターに救急搬送される。集中治療室(ICU)で救命措置を施し、一般病棟に移ってそのまま入院。
診断結果は、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血。自宅で倒れて以降、意識が戻らぬ状態が続いていたが、入院生活22日目の同年7月9日、16時47分に逝去。87歳没。

同年7月12日、ジャニーズアイランドが入居している渋谷のMTBビルの最上階(12階)にあるジャニーズJr.のダンスレッスンルーム(幅15m、奥行き35m)にて、Jr.を含む約150名の所属タレントたちと滝沢秀明だけで家族葬が執り行われ、同日に荼毘に付された。出棺の際にジャニーの遺影を持って霊柩車の助手席に乗ったのは滝沢だった。

2019年9月4日(水曜日)、東京ドームでジャニー喜多川の「お別れの会」が執り行われた。
会は2部制だと報道されたが、正確には3部制で、11時からが「関係者 第1部」、12時半から「関係者 第2部」、14時から20時までが「一般の部」。
関係者の第1部には所属タレントを始め、事務所を辞めたタレントたちが出席したが、案内状(返信用ハガキが入った封書)が届いたメンバーは原則として、ジャニーズ事務所でレコード・CDデビューを経験し、連絡先が分かっている人のみ(一部例外あり)。セレモニー全体の演出は、滝沢秀明がメインとなって手がけた。

お別れの会の日の夜には、川﨑麻世主催によるOB飲み会「ジャニーさんを偲ぶ会」が都内で開かれ、板野俊雄森谷泰章井上純一吉本和子ひかる一平中村繁之大沢樹生、今村良樹(元・ずうとるび)が改めて合流した。また、田原俊彦の元マネージャー・宇野伸一郎は、お別れの会には参加していなかったが、親しい友人でもある森谷泰章に招かれて、OB飲み会には参加した。

ジャニーの父・母・兄が眠っていた和歌山県北部の高野山真言宗総本山金剛峰寺の奥之院参道の「喜多川家之墓」(家紋は桔梗)を、2019年6月にメリー喜多川が億単位の金をかけて新たに建て替え、ジャニーもそこに入ることとなった。戒名は「宝澍院諦応擴道大居士」(霊標の行年は数え年で「八十九才」と彫刻)。
そしてそのすぐ左隣には、藤島泰輔の墓であり、メリー喜多川や藤島ジュリー景子の生前墓でもある「藤島家之墓」も同時に建立(豊島区の霊園からの改葬)された。
同年11月下旬、メリーら親族数名と近藤真彦とで、ジャニーの納骨と開眼法要が静かに執り行われた。

2020年7月9日、渋谷・MTBビル最上階(12階)のダンスレッスンルームにてジャニーの一周忌法要が執り行われ、所属タレントがほぼ全員出席した(中居正広は同年3月31日に円満退所したばかりだったが不参加)。高野山の寺院から僧侶を招き、祭壇にはジャニーが愛用していた帽子、使用していた車椅子、等身大のマネキンが設置された。

人物、エピソード

  • 好きなもの – 野球、演歌、イリュージョン、歴史(特に楠木正成と彰義隊に共感を覚える)
  • 好きな言葉 – 「勝てば官軍」
  • 食事は甘党、肉食。好きな食べ物は焼肉、ビーフストロガノフ、「フォルクス」のステーキ、Calbeeポテトチップスの「堅あげポテト」など。酒はあまり飲まない。
  • おしゃべり好き。
  • 咳払いをよくする。
  • 若い頃は非常に短気で、怒る前になると唇がピクピクと引き攣る癖があった。
  • THE GOOD-BYE」の衛藤浩一や、「ORIGINAL LOVE」の田島貴男に顔が似ていると言われることがあった。
  • 美空ひばりが1988年4月11日に「不死鳥コンサート」を開催した際、美空のために会場の東京ドームを押さえてあげたのがジャニーだった。
  • ジャニーは、その時々で一番気に入っているジャニーズJr.を、常に自分の膝の上に座らせて抱き寄せる行為が好きだった。この行為に関しては、複数の元Jr.が証言している。
    また、ジャニーは所属タレントに対し、ステージや歌番組、雑誌などで、セミヌードにさせることをとても好んだ。若手の所属アイドルを中心に、セミヌードのグラビアを女性向け芸能誌だけでなく、テレビ情報誌にまで掲載することがよく見られた。他の芸能プロダクションのアイドルでもたまにやっていることではあるが、ジャニーズ事務所のタレントは特に顕著だった。
  • 人に対する好き嫌いが非常に激しい。人を一瞬で好きになるが、一瞬で嫌いにもなる。
    ジャニー喜多川というたった一人の人間の、ほんの些細な意向、気まぐれによって、膨大な数の少年たちの人生がいとも簡単にバタバタと変えられてしまう。本来ならスターになれる逸材であっても、ジャニーの個人的な感情一つでその道は断たれてしまい、逆に気に入られればスターにされ、億万長者にもなれる。ジャニーの独裁がもたらす影響力はあまりにも大きく、残酷でもあった。
  • ジャニーズ事務所の合宿所が原宿のマンションの6階にあった1980年代のある日、マンションの下にたむろする女性ファンたちを疎ましく思ったジャニーは、バケツ一杯に汲んだ水を6階の窓からファンたちの頭上めがけてぶっかけたことがある。
  • ジャニーズ事務所のタレント以外でジャニーが好んだ芸能人は、竹本孝之、薬師丸ひろ子。逆に嫌っていたのは、沖田浩之、尾崎豊。ただし沖田に関しては、「沖田が竹の子族として話題になっていた時にジャニーが一度スカウトを試みたが、沖田に断られた」という逸話も存在する。
  • フォーリーブス江木俊夫は自著の中で、「ジャニーズ事務所に最大の利益を与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想のアイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう」と述べている。ジャニーは郷が事務所に在籍していた当時、六本木にあった合宿所の電話番号の最後の4ケタをわざわざ「5163(郷ひろみ)」にしていた程だった。
    しかし、タレントのマネジメントで神経を使い過ぎ、「十二指腸潰瘍の末期」と診断されて1974年6月から3ヶ月間、赤坂の山王病院で入院生活を送っている間に、当時事務所で一番の稼ぎ頭であり、最も可愛がっていたその郷ひろみが、バーニングプロダクションに引き抜かれてしまった(注:移籍が正式に完了したのは翌1975年4月1日)。ジャニーズJr.のメンバーやスタッフまでも引き連れたこの大きな移籍騒動でジャニーは相当なショックを受け、その後は麻雀に埋没することが多くなり、森進一や和田アキ子を六本木の合宿所に招いては、明け方まで麻雀をしていた。なお、和田アキ子はジャニーのことを「ジャニ子」、メリー喜多川のことを「メイ子」という愛称で呼んでいる。
    この他、ジャニーにとっての最高傑作は「少年隊」、そしてジャニーの生涯で最大の発明は「光GENJI」だと評されることもある。
  • 1980年代に、「ジャニー喜多川と黒柳徹子が結婚します。会見はテレビ朝日の第1リハーサル室で行います」というイタズラ情報のFAXがマスコミ中に送られたことがあった。この一件以来ずっと、ジャニーは黒柳から「旦那さん」と呼ばれていた。
  • 所属タレントからの呼称は、「ジャニーさん」、または「社長」。そして所属タレントは皆、ジャニーに対して“タメ口”である(「敬語は堅苦しいから」とジャニーから敬語禁止令が出たため)。
  • かつてTOKIOの国分太一がジャニーに、「ジャニーさんが思う(事務所史上の)最強のグループって、どのグループだったの?」と尋ねた際、即答で「少年隊」と答えた。その理由として、「踊りが完璧。歌も歌えて、自分たちで演出もできていた」と述べていたことを、国分が2019年9月4日放送のフジテレビ『TOKIO×(カケル)300回記念スペシャル』で明かした。
  • 姪(ジャニーの兄・眞一の娘)が、福岡市内でピアノ講師をしている。
  • 指原莉乃主演の映画『薔薇色のブー子』(2014年、監督・脚本:福田雄一)にて、「やめちゃいなよYOU!」、「ジャニーさん」という台詞を、ユースケ・サンタマリアが喋っている。

特徴

ジャニー喜多川は「源平合戦」、「彰義隊」、「白虎隊」、「二本松少年隊」、「新選組」などの歴史ものが好きで、日本の芸能史上、アイドルのグループ名に「〇〇隊」、「〇〇組」というネーミングを最初に採用した人物。

白虎隊、少年隊、シブがき隊 〔“シブがき”の部分のみファンによる命名〕、桜隊男闘呼組三多摩新鮮組少年新撰組など。
但し「〇〇組」というアイデアをジャニーに提案したのは中村繁之

以降、多くのグループがこのネーミングを使用するようになった。
(例:「筋肉少年少女隊(筋肉少女帯の旧名)」、「いいとも青年隊 / 半熟隊」、「少女隊」、「乙女隊」、「おめで隊」、「うしろ髪ひかれ隊」、「茶々隊」、「渡り廊下走り隊」、「ばってん少女隊」、「うしろゆびさされ組」、「おニャン子クラブB組」、「あすか組」〔原作漫画は1985年8月連載開始〕、「桜っ子クラブさくら組」、「平成おんな組」、「維新組」、「モーニング娘。おとめ組」、「モーニング娘。さくら組」、「ほね組 from AKB48」、「新選組リアン」、「でんぱ組.inc」、「モーニング娘。天気組」、「民族ハッピー組(旧名:演歌女子ルピナス組)」、「民謡女子ハピネス組」など)


自分にとって思い入れの深い人物、関連グループの名前やキーワード、また、自身がプロデュースしながらも成功しなかったグループの名前やキーワードなどを、後に再び引用して焼き直すことが多い。

  • 初代ジャニーズ中谷良のリードボーカル曲『裸の少年』(1966年。作詞:中谷良、作曲:三保敬太郎。ジャニーズのアルバム『ジャニーズとアメリカ旅行』に収録。ただし実際に作詞したのは中谷ではなくジャニー喜多川)
    ジャニーズJr.のバラエティ番組のタイトル『裸の少年』(2001年4月7日 – 2009年9月26日、テレビ朝日)

    なお、楽曲『裸の少年』は、後にフォーリーブスの北公次もソロ曲としてカバー。(1969年。北のシングル『ひとりぼっちになった時』のB面、およびフォーリーブスの1stアルバム『ヒット!ヒット!ヒット! フォーリーブス・ゴールデン・ショー』、ハイ・ソサエティーの1stアルバム『世界へジャンプ! ハイソサエティ・サプライズ・プレゼント』に収録)
    更に、2012年~2013年にかけて公演されたミュージカル『JOHNNYS’ World』でも、Hey! Say! JUMP山田涼介が同曲をカバーしている。
  • あおい輝彦葵テルヨシ(「葵」の字の由来は、葵が名古屋出身ということで「葵の御紋」からの引用)
  • クエスチョン・マーク・アンド・ザ・ミステリアンズ(1966年に全米1位のヒット曲を出したアメリカのガレージ・ロックバンド)、および 『クエスチョンズ67/68』(シカゴの1969年のシングル。ハイ・ソサエティーが1971年のアルバムでカバー)→ クエッション村田勝美&ハイクエッチョンズ(読み方は「クエスチョンズ」。「」の当初のグループ候補名。なお、もう一つの候補名は「あけぼの」だった)→ Question?
  • ミュージカル・アカデミー(旧名:ミュージカル・アカデミー合唱団。1960年代~1970年代に活動していた男性12名(結成時の人数)のコーラスグループ。1965年のミュージカル『焔のカーブ』ではジャニーズとも共演した)→ Musical Academy
  • ジャニー喜多川 → 公次(「キタ」の部分を引用)
  • 北公成田昭(「」の文字を引用)
  • Four Tops(1960年代半ばに全米1位のヒット曲を出していたアメリカのR&Bコーラスグループ)→ フォーリーブスFour Tops
  • フォーリーブス・ミュージカル『少年たち』シリーズ(1969年 – 1976年)→ 少年隊のコンサート内ミュージカル『少年たち』(1985年)→ ジャニーズJr.のミュージカル『少年たち』シリーズ(2010年 – )
  • 『夏の嵐 ~第1章 光 / 第2章 影~』(1970年8月1日に発売されたフォーリーブスのアルバム)、および『少年たち パート II ~ 青春の光と影』(1976年3月~4月に行われたフォーリーブスの10周年記念ミュージカル)→ 『影 (シャドー)』(急遽発売中止となったJOHNNYS’ ジュニア・スペシャルの幻のラストシングル)→『PRIVATE LIFE ~Light & Shadow~』(1987年4月28日に発売された少年隊のアルバム)→ ライト・イン・シャドウGENJIの当初のグループ名)→ B.I.Shadow
  • フォーリーブスと永田英二がレギュラー出演していたバラエティ番組『ギャグジカル ジュンとヨッパ』(1970年11月5日 – 1971年3月25日、TBS)→ ジャニーズJr.の2011年のライブ公演『GAG+MUSICAL=ギャグジカル みんなクリエに来てクリエ!2011
  • ハイ・ソサエティーの1970年のデビューアルバム『世界へジャンプ!』→『JUMP ’84
    Hey! Say!』&『JUMP ’84』→ Hey! Say! JUMP
    • Hey! Say!』は、1989年に発売された光GENJIの3rdアルバム。(「Hey! Say!」というネーミングは、ジャニーズ事務所が行ったイベントでも何度か使用されている)
      JUMP ’84』は、1984年の春休み期間中に行われたジャニーズ事務所企画のコンサートイベント。
      なお、Hey! Say! JUMPの“JUMP”は、「Johnny’s Ultra Music Power」の略だが、
      JUMP ’84』の方は、「JOHNNYS ULTRA MUSIC PANIC」の略で、田原俊彦、近藤真彦、シブがき隊、THE GOOD-BYE、ジャニーズ少年隊の5組で、会場を変えながらリレー形式で開催されたコンサートだった。
  • フォーリーブスの1972年のシングル『あなたの前に僕がいた』(作詞:ジャニー喜多川 〔名義は「北公次」〕)→ 2012年のライブ公演『ジャニーズ座 Youの前にはMeがいる!
  • フォーリーブスの1976年のシングル『踊り子』→ 男闘呼組のバックダンスグループ「踊り子
  • フォーリーブスの1978年5月1日発売のライブアルバム、および同年7月26日~8月31日に行われたフォーリーブス解散コンサートツアーのタイトル『LOVE FOREVER』→ 1983年8月4日公開の田原俊彦のドキュメント映画『TOSHI in TAKARAZUKA Love Forever
  • 名前のイニシャルがAからZまで全て揃った26人のメンバーを集め、ミュージカルを上演できるようなグループを作りたいという「ジューク・ボックス」の当初の構想(アルファベット「A to Z」へのこだわり)→ A.B.C-ZSexy Zoneの当初の構想ユニット「A.B.C-xyZ」→ Sexy Zoneの「xy」の赤字化(「アルファベットの連続」であるという意味を強調するため)
  • JOHNNYS’ ジュニア・スペシャルJr.special(Four Topsの旧名)→ Jr.BOYS SpecialSpe千Jr.SP(旧名:ジャニーズJr.SP
  • ジャニーズ・ジュニア・エース、および、ジャニーズJR.(1970年代前半の「ジャニーズJr.」の表記)→ JR.Aジェイアールエー(旧読み:ジュニア・エー)
    • ジャニーズ・ジュニア・エースの「エース」のアルファベット表記は、「Ace」ではなく「A」一文字だった。
  • ザ・ニュースNEWSSAY・Sのバックバンド)→ 2003年にデビューしたNEWS
  • 学園もの。ジャニーズ・ジュニア 中2コース / 花の中2カルテット / 中学2年生ジュニアSMAP学園ジャPAニーズHi!School
  • リトル・ギャングLittle Gangs(関西ジャニーズJr.内のダンスユニット)→ Lil かんさいリトルかんさい
  • 4 JETS4 JETS+2スーパーJETS(いずれもジャニーズ退所後の郷ひろみのバックバンド。長沢悟、山本雅史が参加)、および ジェット(メッツのメンバーの出身バンド)→ HiHi Jets
  • 未都由横山裕(ジャニーが人を呼ぶ際の「You」のネーミング)
  • Hi – Hi – Hi』(ジャニーズ退所後のあおい輝彦のヒット曲)→ 光GENJIの2ndアルバム『Hi!』→ Hi! See Me IN KYOTO → バラエティ番組 『Hi! Hey! Say!』(2007年 – 2009年、テレビ東京)→ ジャPAニーズHi!SchoolHiHi Jets
  • 男女の合同。VIP光GENJI平家派ホタルの男女合同構想 → Sexy Family
  • AチームAぇ少年Aぇ! group
  • Bチーム微笑年B-少年(Sexy Zoneに当初予定されていたグループ名)→ 少年(旧名:Tokyo Boyz → 東京B少年 → Sexy美少年)
  • 少年忍者参・忍者ちびっこ忍者!少年忍者7忍者5忍者
  • 田原俊彦のシングル曲『It’s BAD』、およびマイケル・ジャクソンのシングル曲とアルバムタイトル『BAD』→ B.A.D.
  • ジャニーズ・シニアジャニーズSr.
  • SHOW劇 MASKMASK
  • KANZAI BOYAJr.Boya、および、関西BOYS(KANSAI BOYS)
  • カミセン、 トニセン(それぞれV6の内部ユニットの略称)→ Spe千
  • Hey! Say! BESTJr.BOYS BEST
  • Sexy BoySexy Boyz
  • Hey!GuysNoisy Guys

[大看板を意識して絡めたユニット名]

ジャニーは、国や地域、日本史、新元号、企業、施設、作品などの大看板から引用してグループ名を命名することも非常に好んだ。

  1. 日本国
    ジャPAニーズ → ジャPAニーズ・ジュニア → 滝沢秀明主演の2006年の舞台『滝沢演舞城』の第一幕・第一部のタイトル 「ジャ(PA)ニーズ(Hi)Story 日本昔ばな史」 → ジャPAニーズHi!School
  2. ニューヨーク
    NYC boysNYC
  3. 東京
    未都由(未来・東京都・自由)→ 東京 → 東京男組 → TOKIO → TOKYO、 TOKYO浜松町 → F.M.Tokyo → Tokyo Boyz → 東京B少年
  4. 浜松町:TOKYO浜松町
  5. 近畿地方:KinKi Kids
  6. なにわ
    なにわ皇子なにわ男子
  7. 京都
    Hi! See Me IN KYOTO → KYOTO大原村京男
  8. 源氏物語:光GENJI
  9. 平家物語:平家派
  10. 新選組
    三多摩新鮮組 → 少年新撰組
  11. 白虎隊:白虎隊
  12. 二本松少年隊:少年隊
  13. 新元号からの引用
  14. 『週刊少年ジャンプ』
    『JUMP ’84』→ Hey! Say! JUMP
  15. エフエム東京:F.M.Tokyo
  16. 日本武道館
    舞闘冠They武道
  17. JR、JRA:JR.A
  18. ハローキティ
    K.K.KityKitty
  19. 黒澤明監督の映画『七人の侍』:7 MEN 侍
  20. ジャニーズタレントが幾度も出演してきたミュージカルシリーズ『阿国』:MAIKO&お国

ジャニー弁

ジャニー喜多川は、所属タレントを呼ぶ時に名前では呼ばず、誰に対しても「You」と呼んでいた。(ただし横山裕のことだけは「ヨコ」と呼んでいた)
また、「今日、日曜日だしYouプール来ちゃいなよ」などと、ジャニーズJr.の面々を唐突に電話で呼び出すこともあった。
更に、「You、〇〇しちゃいなよ」という一声でグループが結成されたりコンサートが決定したりと、軽いノリながら重要な決定を下すことも多い。
この「You」、「〇〇しちゃいなよ」といったいわゆる“ジャニー弁”は、所属タレントのみならず多くの芸能人によってしばしばネタにされている。

住居侵入被害

2011年8月17日午前9時45分頃、渋谷区渋谷の自宅マンションに男が侵入し、ジャニーを閉め出して篭城するという前代未聞の事件が起こる。報道では、帰宅したジャニーが自分の部屋のある階のオートロックを解除した際、近くに潜んでいた男も一緒に中に入り、素早く無施錠だったジャニーの玄関扉を開けて中に入り、内側から鍵をかけたとされている。

ジャニーはフロントを通じて110番に連絡し、約40分後、駆け付けた警視庁渋谷署員が室内に突入。 男は取り押さえられ、住居侵入容疑で現行犯逮捕された。ジャニーは34階建てのタワーマンションの最上階(リーマンショック前は時価14億の部屋)に住んでいたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難は無かった。

侵入した男は、プリペイドカードや各種金券類を取り扱う老舗会社の代表取締役社長。 その男は、「知り合いのジャニー喜多川さんの家に入っただけ」と供述。
一方のジャニーは、「男との面識は無い」、「同じマンションの住人かと思った」と話した。

しかし、ジャニーの住む高級タワー億ションのセキュリティは非常に堅固で、24時間有人管理システムや、エレベーターを降りてもガラス扉でガードされているダブルオートロックシステムを導入。つまり同じマンションの住人でさえ、別の階には行けない程の頑丈なセキュリティであった。
しかもジャニーの住む34階に住戸は2戸しかなく、もう一つの部屋もジャニーズ事務所の所有物件。こうした状況の中で「見知らぬ男に自宅に侵入された」という説明には不自然な点が多く、実際にはジャニーは侵入者と面識があったのではないかと見られている。芸能ライター曰く、ジャニーは近い関係者には「犯人と面識があった」と認めているとのこと。

侵入者の会社の取引先企業リストにはジャニーズ事務所の名前もあるため、利権をめぐっての金銭トラブルの可能性が挙げられたが、侵入者が明治大学工学部を卒業後に母親から継いだ会社の月商は3億円以上、内部留保も3億円を超えている。更には世田谷区尾山台に164坪の広い土地を所有。評価額は2億8000万円。この土地を外車ディーラー12社に駐車場として貸している。
また、国立市にも300坪、2億3000万円相当の山林・畑などを持っているほどのリッチな資産家であるため、ジャニーとの金銭トラブルというのは考えにくく、しかも事件のあった日は侵入者の52歳の誕生日だったため、何かしらのプライベートな付き合いでのもつれが原因だとも見られている。

なお、ジャニーはこの事件で世間に住所を知られてしまったため、翌9月の上旬に転居した。

交通事故

2012年10月16日午後3時頃、ジャニーが仕事の打ち合わせに向かうために一人で車を運転していた際に、追突事故を起こす。事故は港区北青山の見通しのいい直線道路で起き、40代の男性が運転する軽自動車に衝突。
ジャニーに怪我はなかったが、追突された男性は軽傷を負った。ジャニーは普段、運転手付きの車やタクシーを利用しているが、時々自分でも運転していた。
警察の調べに対してジャニーは、「前の車が信号で止まったのに気付かず、ぶつかってしまった」と説明。警視庁赤坂署はジャニーを自動車運転過失傷害容疑で書類送検した。
この事故についてジャニーは事務所を通じ、「今後は車の運転は行いません」とコメントした。以後、ジャニーの専属運転手は元・忍者遠藤直人が担当。

ホームエレベーター事件

2014年、ジャニーが自宅に新しく設置したホームエレベーターに乗った際、ドアが開かなくなり、閉じ込められてしまうという事態が発生。携帯電話を持っていない状態で、非常ベルも未設置だったため、閉じ込められていた時間は実に4日間にも及んだ。
老体にもかかわらず、4日間飲まず食わずの状態が続いて意識朦朧とする中、たまたま事前に洗濯機を注文し、家の鍵も預けておいた電気屋が、洗濯機を届けるためにジャニー宅の中に入って来てくれたため、ジャニーがエレベーター内から「助けてくれー!」と大声で叫び、何とか無事に救出されて一命を取り留めた。一歩遅ければ、ジャニーズ事務所の歴史、そして日本の芸能史も変わってしまう一大事であった。
エレベーター会社からの正式な使用許可が下りる前に使い始めてしまったのが故障の原因だった。

性的虐待について

ジャニーが同性愛者(真性の少年性愛者、児童性愛者)であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的虐待(同性愛行為の強要)を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。


まず、駐留米軍の「軍事援助顧問団」に勤務していた頃(1958年~1966年)から、外交官ナンバーの車で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。


ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ飯野おさみあおい輝彦中谷良)で、当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15名の男子生徒たちに性的虐待行為をしていたことが発覚。
オーナーの名和太郎(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。
しかしジャニーが、ジャニーズの4名も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、裁判へと発展。しかも裁判は長期化し、1964年から実に3年以上に渡って行われた。ジャニーズの4名も実際に証言台に立っており、その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも、「ジャニーズ騒動」として5ページの記事が組まれた。なお、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。


『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。

直後、メリー喜多川から編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。
この件については、『週刊文春』(1981年5月28日号、文藝春秋)でも、「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」と題して報じられた。


元所属タレントの告発も相次いだ。元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)、 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(データハウス、1989年9月)、 元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年10月)、 元ジャニーズJr.の平本淳也は『ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館』(鹿砦社、1996年4月)、 山崎正人(木山将吾)は『SMAPへ』(鹿砦社、2005年3月)をそれぞれ上梓。
タレントの生殺与奪の全権を握るジャニーの性的要求を受け入れなければ、仕事を与えられずに干されてしまうという実態が明るみに出た。中でも『SMAPへ』は、ジャニーが行っていた性行為の内容について最も細かく具体的に描写している。
同じく元Jr.の蓬田利久も、漫画『Jr.メモリーズ ~もしも記憶が確かなら~』(竹書房の漫画雑誌『本当にあった愉快な話』シリーズ、著:柏屋コッコ、2014年1月~2015年4月)に取材協力する形で暴露している。 
少年隊もラジオ番組で、錦織一清が「ジャニーさんと言えばメンソレータム思い出すなぁ…」、東山紀之は「合宿所はいつもメンソレータムの匂いがしてた」など、分かる人には分かるギリギリの発言をしている。
元Jr.の星英徳も、ジャニー喜多川の死後になってネット配信で、「ただのJr.だった自分ですら、何十回もヤられた。ちなみにジャニーさんが特に好んだのは、中学生の段階のJr.だった。時には平日の朝から学校を休んで合宿所に来いと呼び出され、マンツーマンで性行為を受けた。その最中は、当時付き合ってた彼女のことを毎回必死に頭で思い描きながら耐えてた。デビューしたタレントは必ず、全員ヤラれている。断ったらデビューは出来ない」と幾度も打ち明け、ジャニーによる性被害や当時の事務所内での異常な状況を説明した。
ジャニーズの出身者以外からも、浜村淳が関西ローカルのラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)の中でジャニーのことを「あのホモのおっさん」と発言したり、ミュージシャンのジーザス花園が、2009年発表の自作曲『ジャニー&メリー』で、AV監督の村西とおるもブログやTwitterで糾弾している。

ジャニーに対する感謝、愛情が誰よりも強いことで知られるKinKi Kidsの堂本剛(児童劇団の子役出身)は、小学5年生の段階で子役活動を辞め、一旦芸能界を引退していたが、姉による他薦でジャニーズのエンターテインメントの世界に触れ、自分もスターになって成功したいという感情が芽生える。
しかし成功するためには、まだ幼い小学6年生の段階からジャニーの性的な行為を耐え忍ぶしかなく、剛が中学2年生の14歳の時に奈良県から東京の合宿所に正式に転居してからは、ジャニーの性行為は更に過熱していった。当時剛と非常に親しい関係にあった元Jr.の星英徳も、「剛は、普通のJr.たちとは違うレベルの性行為をジャニーさんから受けていて、そのことにいつも悩んでた。剛が病んじゃたのはジャニーさんが原因」と、2021年6月25日の深夜にツイキャス配信で証言している(アーカイブは既に削除済み)。
剛にしてみれば、確かにジャニーには芸能界で大成功させて貰って感謝はしているものの、幼い頃から異常すぎる性体験を強いられ、自分の心と体を捨て去るという代償を払わされてきた訳であり、更に人一倍繊細な性格がゆえ、15歳からは芸能活動へのストレスも相まってパニック障害を抱えるようになり、長年に渡って自殺を考えるほどに苦しんだ時期が続いた。自分で選んだ道ではあるし、ジャニーに対して大きな感謝はしつつも、もしジャニーと出会わなければ、こんなにも苦しい思いをすることは無かった、という愛憎が入り混じった複雑な感情から、剛の自作曲『美しく在る為に』は、ジャニーへの思いや、芸能活動への葛藤が描かれた曲だと、一部のファンの間では解釈されている。その歌詞の一部には、

「あたしが悪いなんて 云わせないの あなたが悪いなんて 云う筈がないの 人は勝手だったもの 何時も勝手だったもの 美しく在る為に 勝手だったもの」とある。(「ORICON NEWS」参照。)

元光GENJIの諸星和己も、201年11月6日放送のバラエティ番組『にけつッ ! !』(日本テレビ)に出演した際、千原ジュニアとの会話でジャニーについて、

千原「数年後に大スターになると見抜くその力よ」
諸星「違う違う、たまたま、たまたま」
千原「先見の明がすごいんでしょ?」
諸星「僕の考えだと、“結果論”だね。あの人(ジャニー喜多川)の目がいいとか、見抜く力がすごいとか、“全く”無い!」

と評し、ジャニーに対する世間の過大評価に異を唱えた。そして番組の最後では、「ジャニーの感性はね、あれホ〇だから!」と締めくくった。

ジャニーについてはよく、「少年の10年後の成長した顔が見えていた」などと評されてしまうことがあるが、それは間違い。確かに子供の頃は冴えない平凡な顔をした者が、美容整形なども踏まえて将来二枚目に化けたパターンもあるが、その一方、小さい頃は可愛かったのに、成長と共にどんどん劣化してしまったパターンも少なくない。

そもそも、テレビなどで頻繁に同じタレントの顔を目にしていれば、視聴者の目はその顔に慣れていく訳だから、マイナス面はどんどん軽減されるだろう。

ジャニーが持っていたのは権力と財力であって、人の10年後の顔はおろか、人の本質や将来を見抜けるような特殊能力、神通力は存在しない。ジャニーは将来を予見して採用しているのではなく、ただ単に、今この瞬間の“自分の好み”の少年、個人的に性欲を感じる“ヤリたい相手”を選んでいただけであり、その少年がたまたまスターになるかならないかは、諸星が述べた通り、後からついてきた“結果論”に過ぎない。ジャニーに個人的に嫌われれば、いくらスター性や才能がある者であっても捨てられるし、ジャニーに個人的に好かれれば、スター性の無い者であっても権力と財力でメディアにゴリ推しされ、結果、誰でも人気者になれた。

こうした、ジャニーの個人的な好み、機嫌だけで全てが操作・決定される、非常に特殊で独裁的な事務所だったため、多くのスターを製造した一方、本当に将来有望だったはずの多くの才能も死んでいった。

なお諸星はこの放送の一ヶ月後の2016年12月2日に大沢樹生と共に開催したトークライブでも、ステージ上で「俺が何で結婚しないか? ホモだから。ジャニーみたいなものだから」と発言し、ジャニーを茶化している(諸星自身がゲイであるという部分は自虐による冗談であり、諸星はゲイではない)。


1988年~1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。


1999年~2000年にかけては、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を8回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道した。
出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。

大手メディアがこの性的虐待問題をこれほどまでに取り上げたのは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた。

参照サイト:国会会議録検索システム
第147回国会青少年問題に関する特別委員会第5号「ジャニー喜多川のセクハラ・児童虐待疑惑についての阪上善秀の国会質疑」

ジャニー側は名誉毀損であるとして文春側を訴え、1億2000万円の損害賠償と謝罪広告を求める民事訴訟を起こした。

裁判

2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた(井上哲男裁判長)。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴。


2003年7月15日の二審判決では、ジャニーのハラスメントに関する記述について、

「喜多川が少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言はこれを信用することができ、喜多川が、少年達が逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの本件記事は、その重要な部分について真実であることの証明があった」

と結論づけられ、ジャニー側の性的虐待行為を認定(矢崎秀一裁判長)。このため、性的虐待部分のジャニー側の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と性的虐待行為認定が確定した。


しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「ホモセクハラが認められた」という肝心の理由は書かなかった。

この問題について、懐疑主義団体「JAPAN SKEPTICS」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が批判。「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。

芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。
また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。


以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。

また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁じた。そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。


ジャニーの性癖について姉のメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言ってずっと放任していた。


2019年7月9日にジャニーが逝去した際、テレビや雑誌など、日本の主要メディアではジャニーを賛美する歯の浮くような美辞麗句のみが並べられ、まるでジャニーを聖人君子かのように崇め奉った。

他者の訃報であれば、「光と影」、「成功の裏で…」などと、故人の両面の部分、功罪が報じられるが、普段、「権力に立ち向かい真実を伝えるのがメディアでありジャーナリズムである」などと言ってるマスコミは、ジャニーの性的虐待問題については一切触れることはなかった。

一方、イギリスの放送局「BBC」、イギリスの通信社「ロイター通信」、アメリカの音楽メディア「ビルボード」、アメリカの芸能系ネットメディア「ハリウッド・リポーター」、日本拠点とする英字ネットメディア「JAPAN TODAY」など、海外メディアでは是々非々で性的虐待問題にもしっかりと言及。BBCのニュース記事では、日本の主要メディアで闇の部分が一切報道されない不自然で異常な状況について、

「ジャニーズ事務所は業界であまりに圧倒的な存在だったため、ジャニー喜多川氏を批判することはほとんど不可能だった。強大なジャニーズ事務所を脅かそうと挑む人は、日本の主要メディアには皆無だった」 と論じた。

参照サイト:BBCニュース
ジャニー喜多川氏、87歳で死去 男性アイドル市場で長年圧倒

酷いことに、日本の主要メディアはこのBBCによる記事を報じる時でさえも、ジャニーに対する賛辞の部分だけを抜粋。日本のメディアの弱腰で不公平な姿勢や、性的虐待問題について述べている部分は、全てカットされた。
こうした、たった一社の企業に飼い馴らされ、腐敗しきった日本の業界の中で、ジャニーズの暗部に斬り込んでまともな記事を書いたり意見を述べたのは、ジャーナリストの元木昌彦、LITERAの編集部、そして村西とおるだけであった。

PRESIDENT Online(元木昌彦)
ジャニーズの暗部に触れないメディアの罪

LITERA
ジャニー喜多川社長の美談を垂れ流し性的虐待問題を一切報じないマスコミ!元ジュニアが法廷で証言、最高裁でも確定してるのに

村西とおる談

  • 「病院に駆けつけるジャニーズのタレントによってもはや神格化されつつあるが、その本性は忌まわしき未成年ア〇ル暴行魔。毒牙にかかった少年がどれほどいたことか。その素顔は希代の変態少年姦」(参照:Twitter 2019年7月9日
  • 「批評は文化なのだがメディアはバター犬のごとく尾っぽを振って美談一色。灰になるまで忌まわしい少年ア〇ル姦であったけれど日本の故人を称える美学にならい、黙して語らず。とまれあの世での北公次さまとの再会を祝したい」(参照:Twitter 2019年7月10日

ジャニー喜多川という人間は、趣味と実益を兼ねた上で、富と名声ばかりか、自分好みの美少年たちを無限に選びたい放題の異常な状況の中、生涯で軽く数千人に及ぶ少年たちと関係を持つという性的な幸福も含めて、およそ人類史上、ほかに例のないほどの成功を収めた。
しかしその実、決して人として優れた人物という訳ではなく、「少年愛」という趣味・性癖、生まれ落ちた時代、育ってきた環境がたまたま上手く重なってバズっただけである。
己の性欲の赴くまま、「芸能界デビュー」というこれ以上ない甘いエサを用いて少年たちを誘惑。実際にアイドルタレントとして成功させれば莫大な利益が自分にも舞い込み、タレント本人やそのファンたちからも感謝される、という完璧なWinWinシステムが、結果的に構築された。
そして獲得した権力と財力を使いながら、好き放題やりたい放題の独裁政治で、個人的な趣味をこれでもかと謳歌しながら生きていただけの、究極の道楽者に過ぎない。
ジャニーの成功の影には、切っても切り離せない膨大な数の、悔し涙を呑んだ少年、体と人生をもてあそばれた少年、将棋の駒のように安易に使い捨てられた少年が居り、ジャニーはそうした少年たちの屍の上に成り立っていた。


嵐の活動休止に際して松本潤がアメリカの雑誌『Variety』のニュースサイト(2020年11月2日付)でインタビューに応じた際、記事内ではインタビュー内容と併せて、ジャニーが性的虐待に関する報道をされていることや、事務所の持つ強大な力によってそのことが日本国内のメディアでは報じられていないことも指摘した。


海外向けに日本のエンタメ情報を提供するWebニュースサイト「ARAMA JAPAN(あらま!ジャパン)」が、元「7 MEN 侍」のメンバー・前田航気のインタビューを掲載(2021年1月2日付)。
ジャニー喜多川の性的虐待問題について、「ジャニーズのタレントや社内の他の誰かから、アイドルの虐待について聞いたり見たりしたことがありますか?」と問われた前田は、ジャニー喜多川とジャニーズJr.の何人かが性的な関係を持っていたことを告白。自ら望んでジャニーと肉体関係を持つJr.も居たことを明かした。そうした状況の背景には、ジャニーがタレントのデビューに関して強い決定権を持っていた権力構造があると証言した。(記事掲載後、何らかの横やりが入ったのか、ジャニーに関する部分のみ削除された)

参照:wezzy (Internet Archive)
ジャニー喜多川とジャニーズJr.の「性的な関係」晩年まで? 元7 MEN 侍メンバーが新たに証言

前田がジャニーズ事務所に所属していた期間は、2011年から2018年秋まで。つまり、ジャニーは週刊文春との裁判で2004年に敗訴してもなお、晩年までずっとJr.への性的虐待行為を続けていたことになる。

受賞歴

  • 1970年3月 – GSアイドル雑誌『ティーンルック』の最終号(1970年3月10日号、主婦と生活社)での誌面企画「喜んでいただきま賞」にて、「取材協力賞」を受賞。ジャニー喜多川の写真も掲載された。
  • 2003年4月 – 第28回 菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞
    ただし授賞式には堂本光一を代理人として行かせた。
  • 2011年9月 – ギネス・ワールド・レコーズに認定
    「最も多くのコンサートをプロデュースした人物(2000年 ~ 2010年に8,419回)」と、「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物(1974年~2010年に232曲)」として認定され、 帽子とサングラスで変装した顔写真が、2012年版のギネスブックに掲載された。

    2011年9月23日放送の日本テレビ『ZIP!』では、「80年の人生をショー・ビジネスの仕事に打ち込んできて、ギネス・ワールド・レコーズによって認められたことに感動しています。この年月の間に芸能界の創造性は格段の進歩を遂げました。ギネス・ワールド・レコーズ・ブックがある限り、新しい記録に挑戦し続けようと思います」というジャニーのコメントが、キャスターによって読み上げられた。

    なお、「プロデュースした」と言うと、ジャニー自身が舞台演出や、作詞、作曲、編曲などを行ったように思われがちだが、あくまで「興行や製作の出資者・責任者」という意味であり、「数多くのコンサートを行ったタレントたち、およびナンバーワンを獲ったタレントたちを発掘し、デビューさせた人。また、それらのタレントの所属事務所の社長であり、興行や製作の出資者、責任者」という表現が正しい。

    ジャニーズ事務所のミュージカル作品でも、特にジャニーの晩年はギネス記録を常に意識し、「作・演出:ジャニー喜多川」などとよくクレジットされていたが、ジャニーが脚本の一文字一文字を執筆していた訳でも、つかこうへいや蜷川幸雄といった通常の舞台演出家が行うような、一つ一つのセリフや身振り手振りを細かく演技指導していた訳でもなかった。
    公演データのスタッフ一覧では名前が伏せられているが、実際には補佐を務めるプロ(“ゴースト脚本家”や“ゴースト演出家”)が必ず付いており(川浪ナミヲなど)、一つ一つの演技に対する細かな指導は、その補佐役が行っていた。ジャニーが行っていたのは、単に「こんな感じで」というアイデアの提供や、設定決めなどの“大枠”の部分だけである。
    そのため、「作・演出:ジャニー喜多川」とクレジットされている場合、「作」は脚本というよりも「企画」や「原案」、「演出」は「演出補」、もしくは「構成」、「製作総指揮」、「監修」などの表現が正しい。
  • 2012年 – 再びギネス・ワールド・レコーズに認定
    「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」として認定され、2013年版のギネスブックに掲載された。
  • 2019年12月30日 – TBS『第61回 輝く!日本レコード大賞』にて、この年から新設された「特別音楽文化賞」を受賞。(逝去後のため、授賞式には近藤真彦が代理人として出席)

参考文献

  • 高松宮宣仁親王殿下 高松宮妃喜久子殿下 奉迎記念寫眞帖(1931年〔昭和6年〕11月3日発行、帝國印刷所出版部。非売品)
  • 羅府新報(ロサンゼルスの日系新聞。1933年〔昭和8年〕8月25日付)
  • 女学生の友(1964年4月号、小学館)
  • 佛教東漸七十年記念出版 「日本佛教渡米史」(常光浩然 編、1964年5月、佛教出版局)第四章・各宗派の布教活動 第四節「高野山真言宗」
  • 週刊平凡(1964年7月2日号、平凡出版)
    「おしゃべりジャーナル 育ちがよくてマナーがよくて/ジャニーズ」
  • 週刊明星(1964年7月5日号、集英社)「特報 ジャニーズ やむを得なければ解散」
  • ミュージック・ライフ(1964年11月号、新興音楽出版社)
    「ジャニーズの若い涙/この人をルポしよう」
  • 女学生の友(1964年12月号、小学館)
  • 平凡(1965年3月号、平凡出版)絵物語「四つの夢に乾杯」
  • 週刊サンケイ(1965年3月29日、扶桑社)「ジャニーズ騒動」
  • 髙野山米國別院五十年史 1912-1962
    (風早勝一 著、川島宏之 編、1974年1月、高野山米国別院)「喜多川諦道師の時代」の章(全10ページ)
  • ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~
    (和泉ヒロシ 著 〔後の小菅宏〕、1976年6月、オリオン出版)
  • フォーリーブスの伝説(フォーリーブス 著、1976年8月、泰流社)
    ジャニー喜多川による文章が掲載
  • 週刊明星(1978年6月18日号、集英社)
    インタビュー記事 「フォーリーブス 秘められた“喝采”と“失意”の青春12年間 ! ! アイドル・メーカー、ジャニー喜多川氏が明かす偶像の裏表」
  • Music research(1981年3月2日号、リサーチ社)ジャニー喜多川のインタビュー掲載
  • 週刊現代(1981年4月30日号、講談社)
    「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」(メリー喜多川のインタビューも掲載。文:元木昌彦)
  • 月刊明星(1982年2月号、集英社)
    「アイドルの条件はきびしいのだ シブがきトリオ、少年隊にみるジャニーズ・ファミリーの研究」(ジャニー喜多川のインタビューを掲載)
  • キミがスポットライトを浴びるためのアイドル読本
    長倉孝 著、1986年4月、日本ビジネスライフ社)
  • 平凡(1987年11月号、マガジンハウス)ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 週刊アサヒ芸能(1988年11月24日号、徳間書店)
    「衝撃! あの北公次(元フォーリーブス)に「禁断の愛」を告発された「ジャニーズ事務所」社長の困惑! 二人の4年半を赤裸々に・・・」
  • 噂の眞相(1988年12月号、噂の真相)
    「あの北公次が“ジャニーズ事務所体験”を赤裸々に告白!」
  • 光GENJIへ ~ 元フォーリーブス北公次の禁断の半生記(北公次 著、1988年11月、データハウス)
    • 光GENJIへ・再び(北公次 著、1989年2月、データハウス)
    • 光GENJIへ3 ~ みんなで考えようジャニーズ問題(北公次 著、1989年4月、データハウス)
    • 光GENJIへ 最後の警告(北公次 著、1989年5月、データハウス)
    • さらば ! ! 光GENJIへ(北公次 著、1989年9月、データハウス)
    • 光GENJIファンから北公次へ(北公次 著、1989年12月、データハウス)
  • 8人目の光GENJI(SHADOW 著、1989年6月、データハウス)
    • 新・光GENJI ~ ハロー・アイ・ラブ・ユー(SHADOW 著、1989年10月、データハウス)
    • がんばれ ! ! 光GENJI ~ 新・光GENJIへの手紙(SHADOW 著、1990年2月、データハウス)
    • 新・光GENJI解散! ~ 7人の新たなる旅立ち(SHADOW 著、1990年5月30日、データハウス)
  • 牧歌メロン 2号(1989年8月、南原企画、バロル舎)
    北公次 & 新・光GENJIインタビュー 「邪淫巣ジャニーズ大奥㊙物語ストーリー
  • ジャニーズの逆襲(中谷良 著、1989年10月、データハウス)
    表紙では拘束されている男性の写真が使用されているが、これは顔の部分だけジャニー喜多川の顔写真をコラージュしたもので、『FOCUS』(1988年12月2日号、新潮社)に掲載されたジャニー喜多川の白黒写真が元ネタ
  • ジャニーさん ~ 光GENJIへ総集編(4コママンガ作品、鶴田康文 著、1990年3月、データハウス)
  • アメリカ開教 昭和の密教東漸(高橋成通 著、1990年4月、東方出版)
  • SPA!(1990年7月4日号、扶桑社)ジャニー喜多川の独占インタビュー
  • 週刊明星(1990年8月2日号、集英社)
    「直撃 少年隊「育ての親」が語り尽くした『MASK』のすべて SHOW劇インタビュー」
  • 女性自身(1992年8月18日号、光文社)ジャニー喜多川のインタビュー掲載
  • Myojo(1992年11月号、集英社)ジャニー喜多川のインタビュー掲載
  • ハイ!どうぞ ~ ジャニーズ・タクシー奮走記(立花正太郎 〔真家ひろみ〕 著、1993年5月、マガジンハウス)
  • Views(1995年8月号、講談社)
    「老舗企業徹底研究 ジャニーズ事務所の“アイドル資本主義”」(ジャニー喜多川の5時間、約1万5千字に及ぶインタビュー記事。文:宇井洋)
  • 二丁目のジャニーズ(原吾一 著、1995年11月、鹿砦社)
    • 二丁目のジャニーズ 死闘篇(原吾一 著、1996年4月、鹿砦社)
    • 二丁目のジャニーズ 最終戦争篇(原吾一 著、1996年7月、鹿砦社)
  • BRUTUS(1996年2月1日号、マガジンハウス)
    「美男子ファクトリー ジャニーズ伝説。」
  • ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館(平本淳也 著、1996年4月、鹿砦社)
    • ジャニーズのすべて (2) ~ 反乱の足跡(平本淳也 著、1996年6号、鹿砦社)
    • ジャニーズのすべて (3) ~ 終わりなき宴(平本淳也 著、1996年9月、鹿砦社)
  • ジャニーズ輪廻論(矢﨑葉子 著、1996年6月、太田出版)
  • 月刊現代(1997年1月号、講談社)
    「産業としての『ジャニーズ』を科学する」(文:弓狩匡純)
  • 芸能界スキャンダル読本(1997年2月、宝島社・別冊宝島299)
    浅野恭平 寄稿 「ジャニーズ事務所の憂鬱」
  • AERA(1997年3月24日号、朝日新聞社出版本部)
    ジャニー喜多川のインタビュー掲載。このインタビュー現場には、中居正広も特別に同行させて貰っていた。
  • 朝日新聞(1997年3月24日付、2011年10月22日付、2017年1月24日付)インタビュー
  • ジャニー喜多川さんを知ってますか ~ 初めて語る伝説の実像
    (江木俊夫・小菅宏こすが ひろし〔旧名:和泉ヒロシ〕著、1997年7月、KKベストセラーズ)
  • ジャニーズの憂鬱 アイドル帝国の危機(1998年5月、鹿砦社)
  • ジャニーズ帝国 スターたちの反乱(原吾一 著、1998年7月、コスミックインターナショナル)
  • ジャニーズ・プロファイリング ~ 犯罪心理捜査(伊藤彩子 著、1999年6月、鹿砦社)
  • ボクの夢はキミたちが描く夢 ~ ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち
    (あおきひろし 著、1999年8月、メタモル出版)
  • ジャニーズお笑い進化論(西条昇 著、1999年12月、大和書房)
  • レプリーク(2002年1月号、HANKYU BOOKS)ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 噂の真相(2002年2月号、噂の眞相)裁判記事
  • シアターガイド(2002年7月号、モーニングデスク)ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 不滅のアイドル王国(天馬飛呂志 著、2002年12月、ブックマン社)
  • 芸能界スキャンダル大戦争(2004年5月、鹿砦社)
    「美少年アイドル帝国・ジャニーズ 虚飾の裏側」
  • SMAPへ ~ そして、すべてのジャニーズタレントへ(木山将吾 〔山崎正人〕 著、2005年3月、鹿砦社)
  • シアターガイド(2006年5月号、モーニングデスク)
    西条昇による特別寄稿 「ジャニー喜多川の仕事」
  • 残響 ~ 闘魂!俺が生きた芸能界の半世紀!(上条英男 著、2007年2月、シモンズ)
  • 芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術
    (小菅宏 著、2007年3月、講談社)
  • ワシントンハイツ ~GHQが東京に刻んだ戦後~ 第14章 「アイドル誕生」(秋尾沙戸子 著、2009年7月、新潮社)
  • 週刊文春(2010年12月30日&2011年1月6日合併号、2011年1月13日号、文藝春秋)
    連載「ジャニー喜多川社長のルーツを追う!」
  • 日刊スポーツ(2011年9月25日付)インタビュー
  • 文藝春秋(2012年7月号、文藝春秋)
    「『ジャニーズ帝国』 原っぱからの五十年史」(文:二田一比古)
  • アイドル帝国ジャニーズ 50年の光芒 ~ 夢を食う人・ジャニー喜多川の流儀
    (小菅宏 著、2012年6月、宝島社)- 新書
  • ジャニ研! ~ ジャニーズ文化論
    (大谷能生、速水健朗、矢野利裕 著、2012年12月、原書房)
  • ジャニーさんに愛される息子に育てる法 ~ アイドルの掟 (1)
    (ジャニーズウォッチャー45年・小菅宏 著、2013年11月、竹書房)
  • ジャニーズ魔法の泉 ~ アイドルの掟 (2)
    (ジャニーズウォッチャー45年・小菅宏 著、2013年12月、竹書房)
  • FLASH(2014年2月4日号、光文社)
    「日本のテレビを牛耳る怪物 ジャニーズ帝国 一人勝ちの研究」
  • 芸能人はなぜ干されるのか? ~芸能界独占禁止法違反~(星野陽平 著、2014年5月、鹿砦社)
    第5章 「ジャニー喜多川の少年所有欲求」
  • ジャニーズのアイドル育成による日本組織論
    (慶應義塾大学大学院経営管理研究科の学生・王旖旎 (オウ イニ、Wang Yini) による論文、2014年)
  • ジャニーの伝言 ~ 嵐、SMAP、キスマイたちを育てたジャニーズ事務所社長の夢と言葉
    (小菅宏 著、2016年2月、サイゾー)
  • 高野山米国別院開創百周年 1912-2012(2016年、WEB資料)
  • アステイオン(85号、公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、2016年11月)
    東京大学大学院情報学環特任助教の周東美材しゅうとう よしきによる論考「いつも見ていた『ジャニーズ』 ~ 戦後日本のメディアと家族」。
  • ジャニーズと日本(矢野利裕 著、2016年12月、講談社現代新書)
  • ジャニーズの正体 エンターテインメントの戦後史(太田省一 著、2016年12月、双葉社)
  • テレビとジャニーズ(太田省一 著、2018年2月、blueprint/垣内出版)
  • なぜジャニー喜多川社長は出てこないのか 事務所がつけ上がる「甘えの構造」
    (文:元木昌彦、2018年5月7日、PRESIDENT Online)
  • 異能の男 ジャニー喜多川 ~ 悲しき楽園の果て(小菅宏 著、2019年3月、徳間書店)
  • ジャニーズの暗部に触れないメディアの罪 少年たちへの“性的虐待”という事実
    (文:元木昌彦、2019年7月23日、PRESIDENT Online)
  • 週刊文春(2019年7月25日号、文藝春秋)
    「本誌しか書けない 稀代のプロデューサーの光と影 ジャニー喜多川 審美眼と「性的虐待」」
  • ジャニーズは努力が9割(霜田明寛 著、2019年8月1日、新潮社)
  • EX大衆(2019年10月号、双葉社)「ジャニーズ帝国の50年史」
  • ユリイカ(2019年11月臨時増刊号 総特集=日本の男性アイドル、青土社)
  • 悲劇喜劇(2020年1月号、早川書房)
    • 小特集:ジャニ―喜多川(岡本健一、堂本光一、石川直)
    • 小特集:ジャニー喜多川の仕事(矢野誠一)
  • 野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想(元木昌彦 著、2020年4月、現代書館)
  • 柳田由紀子 「追悼メリー喜多川 知られざるアメリカ赤貧時代」(2021年9月11日、文春オンライン)
    • #1 「旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」
    • #2 「親も金もなく、弟ジャニーとも離れ離れに!」メリー喜多川の知られざる《LA家政婦暮らし》現地証言」
  • 柳田由紀子 「真珠湾攻撃から80年」(2021年12月8日、文春オンライン)
    • #1 「《秘蔵写真》「FBIに捉えられ、便器に頭を入れて寝た父」“もうひとりのジャニー喜多川”を直撃」
    • #2 「「夢は『 少年』を高野山米國別院の舞台に立たせること」LAでブロマイドを売っていたジャニー喜多川の青春時代」
  • 女帝 メリー喜多川(小菅宏 著、2022年4月15日、青志社)

注釈

  1. ^ 『ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)や、 『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(小菅宏 著、2007年3月、講談社)、 『ジャニーさんに愛される息子に育てる法 ~ アイドルの掟 (1)』(小菅宏 著、2013年11月、竹書房)などでは、この劇場の名前を「アーニー・パイル劇場」としているが、これは誤り。
    「アーニー・パイル劇場」とは、1945年から1955年まで東京宝塚劇場がGHQに接収されていた際の名称、もしくは、アメリカ軍統治時代の那覇の国際通りに存在した映画館「アーニーパイル国際劇場」であり、ロサンゼルスにはこのような名称の劇場は存在していない。
    誤りが起きた原因は、小菅氏がジャニー喜多川から聴き取りをした際に、「宝塚のアーニー・パイル劇場のような所」という説明を、そのままロスの劇場の名前が「アーニー・パイル劇場」だと思ってしまったため。なおアーニー・パイルとは、第二次世界大戦末期の沖縄戦で命を落とした従軍記者の名前。
  2. ^ 『ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)や、 『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(小菅宏 著、2007年3月、講談社)などでは、「音楽監督」ではなく「ミュージックメーカー」という名称で記述されている。
  3. ^ ディプロマミルとされる方の「ロサンゼルス市立大学(City University Los Angeles)」とは異なる。
  4. ^ 『ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)では、アメリカの情報局の名をCIAではなく「CID」と誤植されている。CIDは、アメリカ陸軍犯罪捜査司令部(The United States Army Criminal Investigation Division Command。通称:CID、USACIDC)のことであり、情報機関ではない。
  5. ^ 第2次世界大戦後、上智大学はGHQ/SCAPにより「GHQの兵士とその子弟の高等教育機関」として指定され、国際部(駐留米軍兵士およびその家族を主な対象とした夜間プログラム)が設置された。
    1952年にGHQによる日本占領が終わった後も、米軍やアメリカ大使館の関係者およびその子弟の入学が多かった。なお、同大学は1957年まで男子のみ入学が許可され、女子は入学できなかった。



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