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光GENJI

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分類歴代グループ

デビュー:1987.05
デビュー曲:STAR LIGHT(1987.08.19)

1987年2月結成のJr.内グループ「GENJI」に、同年5月結成の「光」を合体させ、同5月に「光GENJI」を結成。
略称:GEN、光G、HG、ヒカゲン。グループ名は『源氏物語』の主人公・光源氏に由来する。
メンバーの脱退を機に1994年9月1日に「光GENJI SUPER 5」に改名後、1995年9月3日に解散。
ローラースケートを履いたまま歌い踊るというパフォーマンスで1980年代終盤に一世を風靡。昭和が生んだ最後のアイドルとなった。

[メンバー]

  • 光(1987年5月 – 1994年8月31日)
    • 内海光司うちうみこうじ
      1968年1月11日生まれ(54歳)、東京都台東区根岸出身、荒川区東日暮里育ち。愛称:キノッピー、コッコ、兄(にい)さん、ウッチー。(ウッチーは佐藤アツヒロが命名)。二代目リーダー。イメージカラー:青。「イーグルス」の元メンバー。
    • 大沢樹生おおさわみきお
      1969年4月20日生まれ(53歳)、東京都文京区本郷出身、江東区大島育ち。別名義:東京ジョー。愛称:ミッキー。異名:目殺師。初代リーダー。イメージカラー:紫。「イーグルス」の元メンバー。「サンデーズ」として活躍。
  • GENJI(1987年2月 – 1994年8月31日)
    • 諸星和己もろほしかずみ
      1970年8月12日生まれ(52歳)、静岡県富士市出身。愛称:かーくん、カズミ、大将、もろちゃん。センター。イメージカラー:ピンク。「でたらめロックバンド」の元メンバー。
    • 佐藤寛之さとうひろゆき
      1970年11月2日生まれ(52歳)、千葉県鎌ヶ谷市初富地区出身。愛称:ヒロくん、ひろべ。(「ひろべ」は諸星和己が命名)。イメージカラー:水色。
    • 山本淳一やまもとじゅんいち
      1972年2月28日生まれ(50歳)、東京都八王子市出身。愛称:バンジー、ジュンくん、ヤマモ。イメージカラー:赤。「Junichi&JJr」に参加。
    • 赤坂晃あかさかあきら
      1973年5月8日生まれ(49歳)、東京都国立市出身、立川市育ち。イメージカラー:緑。
    • 佐藤敦啓さとうあつひろ
      1973年8月30日生まれ(49歳)、京都府八幡市出身、神奈川県藤沢市育ち。愛称:あっくん、アツ、アツくん、アツ兄、アーリー。イメージカラー:黄色。別名義:アツヒロサトウ。後の佐藤アツヒロ。
  • 光GENJI SUPER 5(1994年9月1日 – 1995年9月3日)
    • 内海光司(リーダー)
    • 諸星和己
    • 山本淳一
    • 赤坂晃
    • 佐藤敦啓

[内部ユニットメンバー]

  • SAY’S(一時「SAY・S」表記。1992年8月 – 1994年8月31日)
    • 佐藤寛之
    • 山本淳一
    • 赤坂晃
    • 佐藤敦啓
  • AKIRA&KOHJI(別名:とんがりーず。1994年秋 – 1995年)
    • 内海光司
    • 赤坂晃

[関連ソロ・ユニット]

1986年初頭、ジャニー喜多川がバラエティ番組『アイドル花組おとこ組』(日本テレビ)のハワイロケに同行した際、ローラースケートで遊ぶ現地の人たちを目にし、アイドルにローラースケートを履かせて踊らせる案をひらめいて構想を練り始める。
そんな折、ローラースケートを使ったロンドンの人気ミュージカル『スターライトエクスプレス』が、フジテレビの主催とナムコの協賛で1987年11月より日本でも公演されることが決定。更に、ジャニーズ事務所のタレント・川﨑麻世が同ミュージカルに出演することも決まった。

ここまで条件が揃えば、もうこの機会に便乗する以外に手は無いと考え、新たなアイドルグループを作って、ミュージカルのキャンペーンだと称して割り込み、ミュージカル自体が元々持っていた話題性、宣伝力を利用しながらレコードデビューさせてしまおうと発案。ジャニーズ事務所は、主催であるフジテレビに顔が利き、所属タレントの川﨑麻世もミュージカルに出演するため、キャンペーンとして便乗することは容易であった。

ジャニーはまず手始めとして、1986年の後半より、ダンスレッスンに来ていたジャニーズJr.の内、3名~5名ほどの少人数のJr.をピックアップしてお金を渡し、「これで今からスケートリンクに行ってローラースケートの練習をしてきなさい」と指示するようになる。練習場所は当初、足立区・西新井の東京マリンだったが、途中から後楽園のスケートリンクに変更。最初はローラースケートの講師も付いておらず、Jr.たちだけで自由に滑って遊んでいるだけの状態だった。後楽園に移ってしばらくしてから講師は付くようになったが、それでもJr.の数はまだ少人数のままだった。

そしてジャニーは、1987年1月1日に日本武道館で開催された少年隊のコンサート「NEW YEAR CONCERT ’87」の、錦織一清のソロ曲『FRIDAY NIGHT』の場面にて、ジャニーズJr.(諸星和己ら)にローラースケートを履かせ、錦織の後ろを試験的に走行させた。

続いて、約15~20名のJr.を集め、1987年2月14日(土曜日)&15日(日曜日)に、後楽園ローラースケートリンクにて第一回目の正式なレッスンを行う。3月半ばの土日に第二回目のレッスン。そして春休みが始まる3月下旬より、火・木・土の週3回、15時~18時での本格的なレッスンが始まった。講師は元「東京ボンバーズ」の小泉博、後楽園ローラースケートリンク所属の「ゆうき」、ミュージカルに出演する川﨑麻世ら。

ジャニーはこの時、「『スターライトエクスプレス』のオーディションに向けての練習」との名目でJr.たちを集めていた。事実、当ミュージカルに関連して行われる「ローラーディスコ全国大会」があり、入賞者は特典としてミュージカルにスタント出演することができた。しかし、ジャニーはその大会にJr.たちを出すつもりなど全く無く、あくまでも、Jr.たちを練習に誘い出す口実に使っただけであった。
「新たなグループを作ってレコードデビューさせる。同年4月からは早速、テレビ番組へのレギュラー出演も決まっている」という本当の理由をジャニーが言わなかったのは、ローラースケートに取り組むJr.たちの素の表情、姿勢を見るためであった。
同じ頃、ジャニーはデビューシングル用の楽曲制作をチャゲ&飛鳥に依頼する。

ジャニーは2月に行われた第一回目のレッスンを見た段階で、まずは10名のジャニーズJr.(諸星、寛之、山本、赤坂、敦啓、山崎正人、阿部直人、横山雅巳、石山秀雄、松原一平)をピックアップ。2月18日にアイドル雑誌『POTATO』(1987年4月号、学習研究社)の撮影を行わせる。

続いて2月22日にテレビ朝日の第1リハーサル室で行われたジャニーズJr.のダンスレッスンでは、諸星和己、入所したばかりの赤坂晃、そして、ローラースケートのレッスンには参加していなかったが、木野正人と、元「桜隊」の田代秀高の計4名を新グループの候補として集め、使い捨てカメラの「写ルンです」でテスト撮影も行った。

しかし2月の内にまたメンバーが入れ替えられ、田代秀高、諸星和己、佐藤寛之、佐藤敦啓、山本淳一の計5名を招集したが、山本は当時中学3年生で受験があったために辞退。残る4名での結成となった。リーダーは、最もキャリアがあり、最年長の田代。
この4名でアイドル雑誌『POTATO』(1987年5月号)でグループとして初お披露目されたが、この時点ではまだ正式なユニット名は無く、「ジャニーズJr.の新グループ」とだけ紹介された。

同年3月25日、ミュージカルのタイトル『スターライトエクスプレス』をヒントに、ジャニーは4人に「ライト・イン・シャドウ」というグループ名を付ける。ジャニーは当時、敦啓を最も売り出したいと考えており、年下の寛之&敦啓を「ライト」、年上の田代&諸星を「シャドウ」にそれぞれ分けたが、諸星がジャニーに「影(シャドウ)になるなんて嫌だ!」と突っぱねた結果、性格の明るい田代&諸星が「ライト」、控えめな寛之&敦啓が「シャドウ」という分け方に変更された。

しかしこの直後、ジャニーは新たに「桜隊予備軍」出身の2名のジャニーズJr.(山崎正人、阿部直人)を追加したくなる。また、大正から昭和に移る時の「光文事件」を経て、昭和の次の元号は、改めて「光昭」や「和光」などの「光」の文字を使ったものになるとの噂を知ったジャニーは、次の時代にも見合うように、グループ名にも「光」の文字を使おうとひらめく。しかも「光」の字は英語で「Light (ライト)」なので、スターライトエクスプレスや、ライト・イン・シャドウに通じる部分もあった。

そこで歴史が好きなジャニーは、単にメンバーを追加するのではなく、ライト・イン・シャドウを「GENJI」に改名し、山崎と阿部の2人は「光(ひかる)」という名の別ユニットとして結成させ、2つを合体して「光源氏」の意味になるようにしようと発案。
この「2 in 1」の形式は、「ライト・イン・シャドウ」でライト組とシャドウ組とに分けていた点からの流用。更にゆくゆくは、「源氏 vs 平家」の意味にもなるように、平家の名を持つユニットも新たに作って、両者を対抗させるという構想も練った(後の平家蛍平家派)。

ジャニーはすぐさま、ライト・イン・シャドウを「GENJI」に改名。続いて、山崎正人と阿部直人の2名からなる「光」を合体させようとしていた矢先に、山崎の方が突如、事務所を退所してしまった(阿部の方は1988年まで所属)。更にその直後、今度は古株Jr.である大沢樹生も、「事務所を辞めさせて下さい」と突然ジャニーに申し出る一幕が起こる。

そこでジャニーは、山崎&阿部コンビの代わりに、古くから事務所で頑張ってきた大沢、そして大沢と同じ「イーグルス」出身の内海光司の2名を「光」として結成させ、この機会に一緒にレコードデビューさせてあげようと思い立った。そして大沢に、「You、ローラースケート興味ある?興味なくてもやってみない? 絶対スターになれるからやりなよ」と、やはりグループ結成やレコードデビューのことまでは具体的に明言せずに誘い出した結果、大沢と内海もローラースケートのレッスンに遅れて参加するようになった。

1987年4月5日より放送開始の音楽番組『全国歌謡選抜 サブロー・シローの歌え!ヤング大放送』(TBS)に、まずはGENJIの4名だけでレギュラー出演を開始。この番組のオープニングで、初のオリジナルソング『今、君と歌いたい』を毎回歌っていた。ただしこの時点ではまだローラースケートは披露していない。

間もなくして、GENJIに山本淳一が加入して5名に。その翌週、最年長でリーダーだった田代が脱退させられ、再び4名に(田代だけ、結局一度もローラースケートのレッスンには参加しなかった)。更にその翌週、赤坂晃が加入して再び5名になり、ここでGENJIのメンバーが最終確定。この5名で、テレビ東京『ヤンヤン歌うスタジオ』にも出演した。雑誌では、1987年4月28日発売の『週刊セブンティーン』(同年5月12日・19日合併号、集英社)が初登場となり、ローラースケートのレッスンを受けていることも、この雑誌で初めて明かされた。

続いて『Duet』(同年6月号、集英社)では、誌面で「光ってるゾ! GENJI」と紹介され、後に発表される新グループ名「光GENJI」のヒントが示された。1987年4月17日に代々木公園で撮影された『POTATO』同年6月号のこの雑誌で初めてローラースケートを履いて誌面に登場した。

1987年5月の頭に、デビューシングル『STAR LIGHT』をチャゲ&飛鳥が完成させる。これを機に「GENJI」と、年長組「光」を合体させたユニット「光GENJI」を正式に結成。
同年6月25日(木曜日)、後楽園ローラースケートリンクにてデビュー会見 & 公開振付レッスンを行う。ここで初めて、「光」と「GENJI」が合体したグループであることと、ローラースケートを履きながら歌って踊るグループであることが具体的に明かされた。

ジャニー喜多川がハワイで目にしたローラースケート、ミュージカル『スターライトエクスプレス』の来日、そのミュージカルに自社のタレント・川﨑麻世が出演すること。これらの条件が重なったことで、「光GENJI」という名の、ローラースケートを履いた伝説のスーパーアイドルグループが誕生した。
なお、ジャニー喜多川の当初の案は、ローラースケートを履かせた上で更に楽器も持たせるグループにするつもりだったが、さすがにそれは難しいということで、ローラースケートのみとなった。

同年7月29日、フジテレビ『夜のヒットスタジオDELUXE』に出演し、初めて7人揃っての『STAR LIGHT』を披露。そしてローラースケートを着用したバージョンの振り付けも、この時に初めて披露された。それまではなかなか人気に火が付かなかったが、この一夜の放送によって一気に大ブレイクする。
同年8月19日、ポニーキャニオンから『STAR LIGHT』でレコードデビュー。キャッチフレーズは「超新星から送られたメッセージ。」。

デビュー直後から爆発的な人気を誇り、その年の「日本ゴールドディスク大賞」にて最優秀新人賞、最優秀シングル賞、優秀アルバム賞に該当する各賞、「ゴールデン・アロー賞」にて最優秀新人賞、「FNS歌謡祭音楽大賞」にて特別賞を受賞。その他の日本レコード大賞や全日本有線放送大賞などの賞レースの大会は軒並み辞退。

1988年度のオリコン年間シングルチャートでは、『パラダイス銀河』、『ガラスの十代』、『Diamondハリケーン』の3曲が1位、2位、3位を独占するという、1978年度のピンク・レディー以来の快挙を成し遂げた。また、1stアルバムの『光GENJI』も1988年度のオリコン年間アルバムチャートの第1位に輝いている。
1988年12月31日、「第30回 日本レコード大賞」にて大賞を受賞。

だが、1990年頃から早くもブームは沈静化してゆく。その要因としては、徐々にアイドルや音楽番組が衰退し、更にはバンドブームという大きな時代の波にも呑まれたこと、ファン層以外では、初期のローラースケートによるパフォーマンスの印象があまりに強すぎて、「光GENJI=ローラースケート」以外の新たなイメージの浸透が進まなかったこと、CHAGE and ASKAより提供された初期の楽曲に比べ、それ以上の良質かつインパクトを残す作品に出会えなかったことなどが挙げられる。

1994年春、メンバー7人全員で事務所の副社長・メリー喜多川の自宅にアポ無しで突然訪問し、解散したい旨を直訴する。しかしメリーに説得され、解散を思いとどまるメンバーが出たり、諸星はソロCDデビューをしていたことによる契約の関係でどうしても残らざるを得なくなり、結局、大沢樹生、佐藤寛之の2人だけが1994年8月31日をもって脱退することとなる。

メンバーが5名になってからは、グループ名を「光GENJI SUPER 5」に改名して活動。翌1995年9月3日に解散。(公の場では“解散”ではなく“卒業”と表記)

この解散コンサートのチケットには、最高で100万円もの値が付き、またそれが実際に売れたという逸話を持つ。
光GENJI SUPER 5の解散については、諸星とジャニーズ事務所との間に、マネージメントにおける確執(特にギャランティ問題)があったことが、解散の要因の一つであったと、諸星の自著『くそ長~いプロフィール』にて明かしている。また諸星は、光GENJIが稼ぎ出した純利益の総額は、約5000億円に上るとも述べている。(2017年11月21日、FOD『スナック幸子』にて)




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