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北公次

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分類歴代ソロ

1949年1月20日生まれ、和歌山県田辺市出身。
デビュー: 1966.04.27
デビュー曲:ひとりぼっちになった時(1969.10.01)

きたこうじ。愛称はコーちゃん。「フォーリーブス」2代目リーダー。2012年2月22日午前1時19分、肝臓癌で逝去。63歳没。

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中学校を卒業し、鉄工製作所の住み込み工員として働いていたある日、休憩時間に工場の食堂にあるテレビで初めて、歌って踊る「ジャニーズ」の姿を観て、「俺なら得意のアクロバットを駆使してもっと人気スターになれる」と確信し、きっかけを求めて、当時大阪・道頓堀にあった音楽喫茶「ナンバ一番」に通うようになる。

1964年の暮れ、ナンバ一番で男性アイドルコーラスグループ「スリーファンキーズ」のステージを鑑賞した際、楽屋をうろついていると、スリーファンキーズのバックバンド「ワゴンスターズ」のメンバーから、「そんなに音楽が好きなら俺たちのボーヤ(バンドボーイ)してみるか?」と声をかけられる。すぐに応じた北はバンドの帰京に合わせて、工場から夜逃げ同然で、当時開通したばかりの新幹線で一緒に上京した。

1ヶ月後の翌1965年1月14日~21日に日本劇場で行われた『第25回 新春日劇ウエスタン・カーニバル』(ジャニーズも出演)にて、スリーファンキーズのショーの合間にやっていた映画『喜劇 駅前医院』を、楽屋から舞台に向かう階段の脇で一人で観ていた時、ジャニーズ事務所の社長・ジャニー喜多川に見初められ、「ジャニーズの付き人にならないか?」とスカウトされる。
その日より、四谷三丁目にあったお茶漬け屋(以前はメリー喜多川が経営していたカウンターバー「スポット」だった場所)の2階で、ジャニー喜多川との二人暮らしを開始。その後、ジャニーとの二人住まいは、渋谷区神宮前の御子柴ビル、更に代々木の岩崎ビルへと移っていった。

ジャニーズの付き人をするかたわら、1年後の1966年に、ジャニーズ出演の映画『青春大統領』(公開日:1966.04.27)にて芸能界デビュー。更に同年、ジャニーズのバックバンドである「ジャニーズ・ジュニア」にタンバリン担当としてサポート参加し、日本テレビ『ジャニーズ・セブン・ショウ』にてテレビ初出演。この当時はまだ芸名が無く、本名の「松下公次」のままで活動していた。

1966年8月28日、ジャニーズが本格的なダンスレッスンをするために渡米。ジャニー喜多川も翌9月に渡米した。東京に残された北を始めとする数名のジャニーズJr.に対し、ジャニー喜多川は歌とダンスの講師を付け、週3回のレッスンを用意していたが、北はJr.仲間の渡辺茂樹とよくつるみ、夜の池袋で遊び歩くようになった。
また、北が夜の新宿の街を歩いていた際、たまたま三光町のディスコ「CHECK」の中から聴こえてきた大好きなジョニー・リヴァースの曲に誘われて入店。それからは毎晩CHECKに通っては翌朝まで入り浸るようになり、そこにたむろしていたプータン、サッチン、ケイタらとも親しくなった。
彼らは、新宿駅東口に建ったばかりの「紀伊國屋書店 新宿ビル」(1964年築)の前でいつも溜まっていたフーテン族、通称「紀伊國屋グループ」のメンバーでもあったため、北も彼らと共に、喧嘩、シンナー、麻薬に明け暮れる荒んだ生活に埋没していった。女性との初体験も、このフーテン生活の時だった。北はこの時期、虚無感から自殺願望にも襲われ、代々木の岩崎ビルで実際にガス自殺を試みているが、江木俊夫に発見されて一命を取り留めた。

1967年1月5日、約4ヶ月ぶりにジャニー喜多川とジャニーズが日本へ帰国。これを機に、北もフーテン生活を脱することが出来た。なお、ビートたけしも北公次と同時期に、新宿でフーテン生活を送っていた。

1967年1月、ジャニーズのバックダンスグループ(後の「フォーリーブス」)を結成(4月結成説は誤り)。
ジャニー喜多川は、自分の名前の“喜多”の部分を使い、「“北”公次」という芸名を与えた。年齢も、他のメンバーとの年齢差を縮めるために、2歳若く詐称した。このため、デビュー当初はジャニーズ入りの経緯を、「北の父親とジャニー喜多川の父親が知り合いだったことから、北は中学2年の頃より夏休みや冬休みになる度に上京して、ジャニーズの付き人をするようになった」という嘘のストーリーを発表。こうすることで、和歌山に住む中学生が映画『青春大統領』に出演していても違和感が無いように辻褄を合わせた。

1968年9月5日、フォーリーブスが『オリビアの調べ c/w 壁のむこうに』でレコードデビュー。歌って踊れるアイドルのスタイルを確立し、1970年から7年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場するなど、この時代を代表する男性アイドルグループとなった。

運動能力に優れた北は、ステージでバック転を披露した最初の歌手でもある。ステージでのアクティブな姿に反し、トークの場面では口下手で滑舌が悪く、4人の中で最年長にもかかわらず最も寡黙であった。しかしそれが逆に、シャイでやや陰のあるイメージを与えて魅力となり、メンバーの中でもトップクラスの人気だった。
連続テレビドラマ『ボクは女学生』(1973年~1974年、フジテレビ系)や、『ボクは恋人』(1974年、フジテレビ系)でも主演を務めるなど、俳優業でも活躍を見せた。
なお、デビュー曲を始め、フォーリーブスの多くの楽曲の作詞も北が担当したことになっているが、これに関しては後に自著にて、大半がジャニー喜多川による代作だったことを明かしている。

1972年春、ジャニーズ事務所の合宿所を出て1LDKの部屋を借り、初めての一人暮らしを開始。

1970年代後半になるとニューミュージックに人気が集まり、“男性アイドル冬の時代”に突入。ジャニーズ事務所も低迷期に陥る。フォーリーブスの人気も徐々に下降し、ジャニーズ事務所も低迷期に陥る中、グループの解散話が持ち上がる。メンバーの中では北だけが唯一解散に反対していたが、結局1978年8月31日に解散することとなったため、同時にジャニーズ事務所からも退所した。

1989年発行のカルト雑誌『牧歌メロン』に掲載された北のインタビューでは、

「(解散と同時に)事務所を退所する意向を副社長のメリー喜多川に伝えた所、猛烈に反対された。メリーはソニーレコードのプロデューサーを呼び出し、ジャニーズ事務所に残って欲しいと二人がかりで説得されたが、それを振りきって解散と同時にジャニーズ事務所を退所した」

と語っている。

ジャニーズ事務所を離れた後は、「少なくとも半年は、ロサンゼルスで歌とダンス、英会話を習得する」との予定で、1978年9月4日に日本を発つ。当初はフレッド・アステアのダンススタジオや、英会話学校に実際に通っていたが、10日ほどで辞めてしまった。当初は1日10ドルのモーテルに住み、後半はロスの日本料理店「味平」に居候しながら、約2ヶ月間の放浪生活を過ごす。
その間、左腕の二の腕に小鳥柄のタトゥーを20ドルで入れたり、9月17日にはディズニーランドを観光。また、『週刊女性』(1978年10月17日号)に近況報告を、『週刊平凡』(同年9月21日号)と『微笑』(同年10月28日号)にはアイドル時代の苦悩、暴露を寄せた。

1978年11月8日に帰国。
渡米した際に途中で寄ったハワイで知り合った日本航空・国際線の客室乗務員の住む大田区大森の環七通り沿いの古い木造アパートの1階奥の部屋に転がり込み、同棲を開始(後に同じ大森のマンションへと転居)。『プチセブン』(1978年12月20日号)に手記を寄せ、帰国後の心情も語った。

「第一プロダクション」へ所属し、ソロ歌手としてCBSソニーよりレコードデビューするための準備を進めている最中、1978年12月14日、東京家庭裁判所に提出された、とある一組の夫婦の離婚訴状にて、1976年11月から妻と北が都内の数ヶ所のラブホテルで密会し、不倫を重ねていたことが発覚する。この妻(ホステス)は1978年春の時点で、覚醒剤の常用・売人の罪で逮捕されて裁判も済んでいたが、北も一緒になって覚醒剤を常用していたことが、その離婚訴状には記されていた。
この情報を当初から掴んでいた日刊スポーツは、離婚訴状が提出された日と同じ、12月14日の朝刊にて早速、一連の内容を掲載。これを機に芸能界は騒然となり、マスコミはこぞって北の事件を取り上げた。しかし警察はなかなか動かなかった。

週刊誌『微笑』(1979年3月31日号)の「愛と性の体験」の記事に北も手記を寄せ、過去の女性体験の一部を自ら暴露した。(同記事には江木俊夫も手記を寄せている)

最初の覚醒剤疑惑報道から4ヶ月後の1979年4月12日、北が覚醒剤取締法違反で逮捕された。そしてこの逮捕を機に、北がこれまで年齢を2歳若く詐称していたことも初めて世間に発覚した。

逮捕時の報道や後の本人のインタビューによると、

「1975年からフォーリーブス解散までのグループ末期の3年間は、覚醒剤を毎日の様に摂取。ヒジの内側の静脈に、自分の左手でも注射が打てるほどだった。そして、当時から当局にマークはされていた。また、覚醒剤を必要とする度に購入資金をメリー喜多川から毎日2~3万円ずつ貰っていた」

と答えている。その合計金額は、3年間で約1500万円に達した。

1979年5月20日、約40日ぶりに保釈される。保釈金は150万円だったが、当時の北にはまともな貯金が無かったため、故郷で新聞配達をしていた貧しい父親が必死で借り集めた保釈金だった。翌々日の5月22日に飛行機で和歌山の実家へ帰郷。
1979年6月11日、東京地裁で懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決が下る。
芸能界復帰準備中での薬物逮捕ということで、せっかくの第一プロダクションの尽力を白紙にしてしまった事情もあり、他にはもう引き取ってくれる事務所は無く、故郷の田辺市の水産物加工販売(鮮魚卸)会社「土佐丸水産(株)」にて、魚の積み降ろしの肉体労働(アルバイト)を開始。月給は9万円だった。

それから5ヵ月後、大衆演劇俳優である沢竜二の誘いによって上京し、沢の劇団「竜の会」と、劇団の提携プロダクション「富士映像」に入る。住居は、客室乗務員の大田区大森の部屋へ再び転がり込んだ。
そして、上京直後の1979年11月、池袋シアターグリーンで行われた劇団公演に、すぐに斬られてしまう端役で出演。翌1980年3月には道頓堀・中座での『ミヤコ蝶々特別公演 遺産のぬくもり』にも客演で出演した。その後、劇団の内紛により、やむなく「竜の会」を退団。「富士映像」には引き続き在籍。

それからは、5人編成のロックバンド「北公次 & クレアオーディエンス」を結成し、1980年秋に渋谷エピキュラスで1stコンサートを開催(その模様は雑誌『月刊ウイークエンドスーパー』1980年12月号に掲載)。以降は新宿西口のパブレストランでライブ活動を行っていた。

ソロコンサート「鷹になった男 北公次 KOJI KITA’S ROCK CONCERT」(1980年12月24日、新宿区大京町・野口英世記念会館)を開催し、本格的に芸能界へ復帰。
続いて『週刊明星』(1981年5月14日号「北公次を再びその気にさせた陰の女性が発覚!」)と『週刊女性』(1981年5月12日&19日合併号、「北公次 愛に支えられて完全復帰!」)の記事で、同棲中だった客室乗務員の女性の存在も世間に発覚した。

再び俳優としてテレビドラマや舞台に顔を出すようにもなったものの、仕事の数は年に1~2本という細々としたものだった。また、原宿のライブハウスで不定期にライブ活動も開催したが、それだけで食べていくことは厳しく、経済的に同棲相手の女性に頼りきりの状態だった。芸能界での仕事が無く、目標を見失った北はパチンコに明け暮れ、更には幻覚作用を求めて1本1,500円もするブロン液を毎日2~3本飲む依存症になっていった。

そんな頃に母親が逝去。葬式のために田辺に帰った際、「地元でスナックを経営しないか?」と誘われ、白浜温泉のスナックを少し手伝ったりもしたが、やはり芸能界への復帰を捨てきれず、東京に戻る。それでも芸能の仕事が来ることはなく、またパチンコとブロン中毒の日々が続いた。

1983年、北のファンであった俳優・脚本家の金子正次から突然のオファーを受け、同年10月29日公開の映画『竜二』に準主演格で出演する。更に映画公開と同じ10月には、同棲していた女性と“授かり婚”もした。
映画『竜二』は、主演の金子が公開直後に、胃癌性腹膜炎により33歳の若さで急逝したこともあり、伝説的な扱いを受ける。北も一世一代ともいえる好演を見せたが、それでもやはり芸能界の風当たりは厳しく、その後も北への出演依頼はなかなか来なかった。

1984年に第一子の男児が誕生。妻は出産で体調を崩し、客室乗務員の仕事を休職。北は何度か日雇いのアルバイトや、大森の洋服問屋の倉庫で日給5千円の洋服発送のアルバイト(3ヶ月契約)もしたが、やはりブロン液とパチンコの毎日に戻ってしまう。家計は厳しくなるばかりで、家の物を次々に質に入れてまで、ブロン液の購入費用にあてるようになっていった。

やがて、ブロン液の副作用から鬱病になり、治療のために2ヶ月の隔離入院。退院後もまたブロンに手を出しては、再入院を繰り返していた。ちょうどこの時期の北の姿をとらえた貴重な隠し撮り写真が、『女性セブン』(1986年11月6日号。公園のベンチで幼い息子を抱いてる姿)、『女性自身』(1987年5月12日・19日合併号。ブカブカのセーター、ボサボサの髪にサングラスという格好で大森のマンションから出てきて自販機でタバコを買っている後ろ姿)に収められている。

そして3回目に退院した1988年前半、ついに離婚。妻は男児を連れて大森のマンションを出て行った。
なお、北はこの時期にフジテレビ『夜のヒットスタジオDELUXEスペシャル』(1988年2月10日放送)に出演している。放送1000回達成記念の3時間特番で、新高輪プリンスホテルからの生中継。後輩のたのきんトリオTHE GOOD-BYEシブがき隊少年隊少年忍者が勢揃いする中、北は江木俊夫と同じテーブルに座り、司会の古舘伊知郎にマイクを向けられてコメントも残した。

離婚のショックから酒浸りの荒れた生活を送っていた時、故郷の父親が体調不良との連絡を受け、田辺の実家に戻る。幸い父親は無事だったが、北はそのまま田辺に居残り、父との2人暮らしをしながら、行きつけのスナックなどで毎晩酔い潰れるだけの生活を送っていた。

そんな状態でくすぶっていた1988年7月、田辺の実家へ、ジャニーズ事務所を糾弾するため、各所を奔走してジャニーズの裏情報を集めていたAV監督の村西とおるのスタッフが突然来訪。暴露本の出版と、芸能界への復帰話を持ちかけられる。
北はスタッフから渡された5万円で、7月27日に上京。指定された紀尾井町のホテルニューオータニに宿泊し、翌28日にホテルで村西監督本人と初対面。改めて暴露本の出版と、“マジシャン”として芸能界へ復帰する話を持ちかけられる。北はこれに応じ、東京の村西の下で実際にマジシャン修行を開始したが、なかなか気持ちが乗らず、同年9月には村西の下を去り、再び田辺に戻ってしまう。しかし、暴露本の出版の方だけは実現し、同年11月、データハウスより北公次の半生記『光GENJIへ』が発売された。
この本はフリーライターの本橋信宏が北を4日間、浅草ビューホテルに缶詰め状態にして半生を語らせ、それを本橋が文章化したもので、ジャニー喜多川のホモセクハラ、女性ホルモンおよび薬物の使用、私生活や暗部などが書かれた暴露本であり、以降、ジャニーズ事務所やジャニー喜多川に対する糾弾目的の書籍がシリーズ化。北はこれを“戦い”と称し、「ジャニー喜多川と刺し違えてでも戦い続ける」と語った。同シリーズはベストセラーとなり、全10冊、総計300万部の売上を数え、出版後のジャニーズ事務所所属アイドルのCDの売上が軒並み落ちたとされる。

書籍のシリーズ化と並行し、データハウスの社長・鵜野義嗣が新たに「データハウスレコード」を立ち上げ、北にバンドを組ませて歌手デビューさせることを企画。これにより、田辺の実家に戻っていた北は1988年11月22日に再び上京。そして、“日本のジミ・ヘンドリックス”の異名を持った名古屋の天才ギタリスト・中野重夫らを従えた6人組のバンド「北公次 & スカーフェイス」を結成。1988年12月25日にシングル『ダイヤルMを廻せ!』をインディーズでリリース。
更に翌1989年1月15日、大阪梅田・バーボンハウスにて初ステージ。続いて1月25日には渋谷・エッグマンでもライブを敢行。エッグマンには、当時中野重夫のファンだった野村義男が、まだジャニーズ事務所所属だったにもかかわらず客として訪れた。
以降も、全国48ヶ所に渡る多数のライブ活動を行った。(1989年3月3日:梅田・バーボンハウス、3月4日:インクスティック芝浦ファクトリー、4月9日:六本木ピットイン、6月14日&15日:インクスティック六本木、7月2日:名古屋・ZMA、9月17日:渋谷エピキュラス、10月29日:原宿ホコ天、11月3日:大阪芸術大学学園祭、etc.)

シングルに続き、「データハウスビデオ」からのビデオ発売。そして、「ザ・ゲロゲリゲゲゲ」のインディーズレーベル「VIS A VIS (ビザビ)」より、アルバム『FLOWER』もリリースした。更に、ジャニーズ事務所への批判・撲滅目的のイベント「ウィ・アー・ザ・ジャニーズ」を開催した他、Vシネマへの主演などもあったが、ジャニーズ事務所からの圧力により、『微笑』、『FOCUS』、『噂の眞相』、『週刊アサヒ芸能』、『東京スポーツ』、『宝島』などの一部のメディアを除き、在京テレビ局、ラジオ局からはほぼ完全に無視された。(この時期に北を取り上げたのは、1988年1月25日放送の『モーニングeye』と、同じ週の『2時のワイドショー』のみ)

また、『光GENJIへ』出版後に“個人名義”で出演できたテレビ番組は、『光GENJIへ』が世間の話題を呼んでいた時期に出演した関西ローカルの土曜の昼の生放送トーク番組『ノックは無用!』(1989年2月25日、関西テレビ。司会:上岡龍太郎)と、データハウスを離脱してから出演した音楽番組『ファンキートマト ’93』の最終回(1993年3月29日、テレビ神奈川。共演:森若香織、根本敬)の2回のみであった。
なお、この状態はフォーリーブスを再結成した後もずっと続き、2007年にソロアルバムを発売した際でも、メディアにおけるPR出演は女性週刊誌のインタビュー記事だけであった。

私生活では、離婚して以来ずっと音信不通だった妻子が、1989年1月25日の渋谷・エッグマンでの「北公次&スカーフェイス デビューライブ」に訪れ、約1年ぶりに再会。そして同年の初夏に再婚。再び大田区大森のマンションで同居し、翌1990年には2人目の子供(女児)が生まれた。
妻も、北がジャニーズへ挑んでいる戦いに賛同し、北の著書『さらば !! 光GENJIへ』に告白文と自らの顔写真を載せ、更に、雑誌『ケ・セラ』(1989年11月23日創刊号。『微笑』20周年記念別冊。祥伝社)でもインタビュー取材に答えた。

データハウスと折り合いが悪くなり離脱した後の1990年、雑誌『週刊宝石』にて、

「『光GENJIへ』シリーズで得た印税は、CDやビデオの制作費やライブの開催に注ぎ込んだが、採算が取れなかった」、「現在はきちんとした固定収入が無いのでアルバイトをしたい」、「主演映画(Vシネマ『怪獣の観た夢』)の撮影に入る」、「離婚した妻が戻ってきて再婚し、二人目の子供が生まれた」

などと近況を語った。

この他、暴露本の出版を“戦い”と称するなど、データハウスで活動していた頃と変わらない姿勢を見せたり、1989年の雑誌『牧歌メロン Vol.2』でのインタビューと同様の、「ジャニーズについてまだ暴露していない大きな爆弾を持っている」との発言もあり、次のジャニーズ内幕暴露本を発表するための出版社を探しているとのことだったが、結局別の出版社から北の新たな告発本が出ることは無かった。
なお、復縁した妻とは1992年に再び離婚。別れた妻は二人の子供を連れて、北海道へと転居した。

1992年から1993年にかけ、数本の舞台に出演。

1994年3月、45歳の時、北のファンだった資産家の令嬢(当時37歳。東京都出身。堀越高等学校・芸能コース卒業)と再々婚。(北にとっては3度目、そして2人目の結婚に当たる)
同年6月9日、ハワイのシェラトン・モアナ・サーフライダー・ホテルで挙式し、6月12日には紀尾井町のホテルニューオータニで披露宴を行った。雑誌『FOCUS』(1994年6月22日号、新潮社)では、夫婦揃っての顔出し取材も受けている。
そして、それまで在京キー局への出演は完全に不可能だったにもかかわらず、この披露宴には解散後初めてフォーリーブスの元メンバー全員が揃い、各局のワイドショーや複数の週刊誌もこれを報じた。そのため、ジャニーズ事務所と北との間に“手打ち”があったとされている。事実、北はかつて散々「俺はジャニーズを相手に戦い続ける!」と公言し続けていたが、1999年から2000年にかけて『週刊文春』に連載された“ジャニーズ事務所批判キャンペーン”で、元ジャニーズタレントたちの証言やコメントが相次ぐ中、北は最後まで文春に協力する事は無かった。

なお、再々婚相手の女性との出会いのきっかけは、北が知人に連れられて、当時港区六本木のパブスナックでママをしていた女性の店に飲みに行ったことだった。やがて女性の六本木のマンションに居候して同棲するようになり、結婚話と同時進行でブティック経営の話が持ち上がる。そして、再々婚と共に麻布十番と下北沢に店を借りてアロハシャツなどのハワイアングッズを売るブティックを開店した。ブティック経営を始めた理由について北は、「(妻に)夜の仕事をさせたくなかった」、「以前から服飾に興味があった」とFOCUSで語っている。

この再々婚後は芸能界を事実上引退。4年後には女児も誕生した。その頃には、東京都江戸川区南小岩の商店街「フラワーロード」に妻が出店した喫茶・雑貨・ブティックの『マザーポップコーン(旧店名:HANO HANO)』を手伝っていたが、数年後に経営が悪化し、やむなく閉店。以後はポスティングや介護ヘルパーのアルバイトで生計を立てていた。

2001年、銀座のライブハウス「TACT」にてソロライブを開催。

2002年1月にフォーリーブスを再結成。
同年、北と青山孝史の2名で関西テレビ『快傑えみちゃんねる』に出演した(2007年7月にも同番組に青山とおりも政夫の2名が出演)。2006年8月12日にはNHK『第38回思い出のメロディー』に出演し、57歳にして得意のバック転も披露した。続いて2007年1月23日と2009年3月31日には、テレビ朝日『徹子の部屋』にもメンバー揃って出演している。

2004年、地方へ向かう日の朝に某駅のエスカレーターにて、商品を搬送中の飲料水業者の人が荷崩れを起こし、北の足の上にその商品が落下するというアクシデントに見舞われる。これによって北は足を骨折してしまい、しばらくの間、杖を突く生活を余儀なくされた。

2006年、東日本総合整体学院の広告モデルを務める。

2007年1月1日、フォーリーブスとしての活動や所属事務所と並行して、個人事務所「OFFICE-REN」を設立。オフィシャルサイト「With Koji」と、ファンクラブ「The Prime Point Club」も開設した。

ソロアルバム『Mother』のジャケットに公募作品を起用した縁で、2007年10月13日に大阪ビジネスパーク・ツイン21タワー1Fで開催された絵画公募展『第1回 産経はばたけアート・フェスタ』のオープニングセレモニーに出席。受賞者に対して花束贈呈や激励の言葉を送った。
なお、同イベントを記事にした産経新聞には名前が出たものの、同イベントの模様を放送したNHKのニュースに名前が出ることは無かった。

2009年のフォーリーブスの(二度目の)解散後は、定期的なソロLIVE、ファンクラブ会員を対象とした有料イベントの他に、ファンクラブ会員のみが入会できる会員制ストレッチ教室も開いた。

2012年2月22日午前1時19分、肝臓癌で逝去。63歳没。
通夜は同月25日、葬儀・告別式は翌26日に、江戸川区西小岩の「東京葬祭 慈光殿」で執り行われた。おりも政夫の他、あおい輝彦、郷ひろみ、野口五郎、酒井政利プロデューサーら、関係者約150人、ファン約550人が参列。沿道にも約100人が溢れた。江木俊夫は仕事(25日:大阪、26日:名古屋に滞在)で参列できなかったが、手紙を寄せ、おりもが代読した。弔辞もおりもが読み、「寂しがりやのコーちゃんだから心配です。天国で大好きなビールを飲んでゆっくりして下さい」と語りかけた。また、取材に応じた野口は、「この世界に入って最初にできた先輩であり友達。仲良くしてもらった。悲しいし悔しい」と話し、その場で号泣した。
一方、ジャニーズ事務所からは参列者は無かったものの、唯一、北のことを尊敬していた錦織一清からのみ花が届いた。
北はその後、和歌山県田辺市の市営墓地「神子浜(みこのはま)墓地」にある松下家之墓に入った。創価学会員のため、戒名は無し。
なお、北が「63年と33日」の生涯だったのに対し、かつての親友・渡辺茂樹も「63年と33日」という全く同じ長さで北の後を追っており(死因は非公開)、非常に因縁めいたものを感じさせる結果となっている。

2013年1月27日、青山&おりものファンクラブが主催し、北と江木のそれぞれ事務所の協力によって、「北公次を偲ぶ会 Koji Kita Forever in Our Memory ~always with you~」(光が丘IMAホール、7,000円)が行われた。当日は、江木とおりもも出演した。続いて同年2月22日にも、江戸川区南小岩のハワイアンカフェ「Blue Orange」(北の妻が2012年秋にオープンした店)にて「北公次を偲ぶ会」が開催され、酒井政利と嵯峨聖子が出席した。

2021年初頭、北のオフィシャルサイト「With Koji」が閉鎖。




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