ほぐちゆうすけ。1948年1月24日生まれ(75歳)、東京都杉並区出身、16歳の時に埼玉県の北越谷(越谷市大沢)に転居。
本名:同じ。作編曲家、ミュージックプログラマー。東京都立烏山工業高等学校電気科卒業、日本大学芸術学部文芸学科中退。
愛称:ベートーベン。妻はアメリカで活動する歌手・神田広美。
一般社団法人日本音楽著作権協会正会員、元社団法人日本音楽著作権協会評議員、一般社団法人作曲家協議会正会員、BMI(米国著作権協会)会員、ASMC(米国作曲家協会)会員、日本作詞作曲家協会理事、株式会社ミュージックゲート代表取締役社長、株式会社アムバックス代表取締役社長、NPO法人ミュージックプランツ名誉会長。
[参加バンド]
- ジャニーズ・ジュニア
- アウト・キャスト
- 津々美洋とオールスターズ・ワゴン
- 猪俣猛とサウンドリミテッド
- ピープル(幼馴染み。ジャニーズ時代の盟友・田中清司も参加)
- 稲垣次郎とソウル・メディア(同じく田中清司も参加)
杉並区西荻窪3丁目生まれ。杉並区立桃井第三小学校に入学し、5年生の時に同区荻窪に転居して同区立西田小学校に転校し、卒業。
同区立松溪中学校に入学すると、水泳部に所属。平泳ぎの速さは、学校内でトップ、杉並区内で三位だったが、都大会で予選落ちした。なお、タレントのせんだみつお(本名:中野光男)とは同じ中学の同級生で、当時よく一緒に遊んでいた。
14歳でウクレレを始め、15歳でギターとピアノも同時に始める。
高校は東京都立烏山工業高等学校電気科に入学。同級生には、後に「ペドロ&カプリシャス」のギタリスト・古城マサミとなる郡正巳が居た。
高校1年の時に、ダンスパーティーで知り合ったメンバーらと共に、アマチュアバンド「テディー・ボーイズ」を結成。寺尾聰(後の「ザ・サベージ」、俳優)、渡辺純一(後の「ザ・サベージ」のドラム)、大野良治(後の「アウト・キャスト」)などがおり、穂口はリードギターを担当。環八道路沿いの蕎麦屋の2階に集まってバンドの練習をしていた。
一方、中学時代の友人・中野光男(後のせんだみつお)は、法政大学第一高等学校(後の法政大学高等学校)に進学していたが、その同級生に、ジャニーズのバックバンド「ジャニーズ・ジュニア」でドラムをしている田中清司がおり、中野を通じて、穂口も田中と知り合う。
そして1963年、高校1年の15歳の時に、穂口も「ジャニーズ・ジュニア」にオルガンで一時参加した。
このジャニーズ入りの経緯について、穂口は2012年5月15日のTwitterで次のように述べている。
「16才の時(← 正確には15歳の間違い)、田中清司が出ている日劇(「ウエスタンカーニバル」にジャニーズのバックバンドとして出演)に遊びに行った。休憩中に袖のピアノで覚えたての『モーニン』(Art Blakey & The Jazz Messengersの曲『Moanin’』)を一人で弾いた。夢中になった時、後ろから突然、
“You、オルガン弾いてくれる?”
翌日からジャニーズのバックで弾いた。48年前はジャニーさんも30代。今やジャニー喜多川大社長。流石に目利きが鋭い」
同じく1964年、16歳の時に父・穂口重雄の会社が倒産。一家は埼玉県の北越谷(越谷市大沢)に転居。
1966年8月、水谷淳(後の水谷公生)に誘われ、轟健二(後の松崎澄夫、アミューズ副会長)らと共に、伝説のGSバンド「アウト・キャスト」を結成。渡辺プロダクションに所属。オルガニスト、キーボーディストとして活動した。
当時のマスターテープがほとんど紛失している中、アナログ盤から音源が起こされてCDで再販売されるなど、マニアに根強い人気を持つ。
1967年秋に「アウト・キャスト」を脱退し、江藤勲(ベース)に誘われて「津々美洋とオールスターズ・ワゴン」に途中から加入した。
日本大学芸術学部在学中に編曲家の森岡賢一郎に抜擢され、19才で当時最年少のスタジオ・ミュージシャンとなり、多くのレコーディングセッションに参加。水谷公生、武部秀明(元「アダムス」の千原秀明、愛称:チー坊、2002年没)、戸叶京助(後の大文字京介、2006年1月24日没)による洋楽コピーバンド「オールド・グランド・ダッド」を始め、数え切れないほど多くのスタジオワーク、およびアレンジャーサポート活動を行った。
23才からは編曲家に転向。更に25歳からは、作曲家としての活動も開始した。
作詞、作曲、編曲を担当した代表作『春一番』(1976年、キャンディーズ、第27回「紅白歌合戦」出演曲。オリコン最高位3位)はテレビCMなどで繰り返し放送され国民的歌謡曲となっている。元々はアルバム「年下の男の子」(CBS/SONY/SOLL-138/75.04.21)に収録された一楽曲にすぎなかったがファンクラブからの意見で後にシングルカットされたという逸話がある。
1982年の34歳の時に、原宿に音楽学校『プロフェッショナルミュージックスクール AMVOX(アムバックス)』を設立(その後、世田谷区用賀駅下車すぐの地に移転)。自身も講師を務めていた。
アウト・キャスト
1966年春に結成されたグループ・サウンズ(GS)のバンド。所属は渡辺プロダクション。グループ名の由来は「人真似ではなく、自分達独自のもので飛躍しよう」との想いから命名(近代映画 1967年12月号 近代映画社より)。
第1期メンバー
[1966年8月 ~]
- 穂口雄右(オルガン)
- 轟健二(本名:松崎澄夫。ボーカル)
- 水谷淳(本名:水谷公生。リードギター)
- 片桐周一(リズムギター)
- 大野良二(本名:大野良治。ベース)
- 中沢啓光(後の西川啓光。ドラム)
[1966年 ~ 1967年夏]
- 穂口雄右(オルガン)
- 轟健二(ボーカル)
- 水谷淳(リードギター)
- 藤田浩一(リズムギター)
- 大野良二(ベース)
- 中沢啓光(ドラム)
[1967年夏 ~ 1967年秋]
- 穂口雄右(オルガン)
- 轟健二(ボーカル)
- 水谷淳(リードギター)
- 大野良二(ベース)
- 中沢啓光(ドラム)
[1967年秋 ~ 1968年3月の解散まで]
- 轟健二(ボーカル)
- 水谷淳(リードギター)
- 大野良二(ベース)
- 中沢啓光(ドラム)
第2期メンバー
※ 渡辺プロから独立した後のメンバー。第1期メンバーだった轟、水谷はバンド「アダムス」へ。
[1968年4月 ~ 1969年初頭]
- 大野良治(ベース)
- 岡本修(ボーカル)
- 谷かつみ(本名:大谷克己。リードギター。トニー谷の次男。後にジャニーズ事務所へ移籍し、ハイ・ソサエティーに加入)
- 管野吉信(「菅野」や「吉治」などの表記は誤り。エレクトーン、ボーカル)
- 朝倉幸夫(ドラム。『ライオンは起きている』をヒットさせたバンド「ザ・ギャング」の朝倉紀幸の兄)
ディスコグラフィ
[シングル]
- 友達になろう c/w 気ままなシェリー(1967年1月25日)
- 愛することは誰でもできる c/w 電話でいいから(1967年4月10日)
- レッツ・ゴー・オン・ザ・ビーチ c/w エンピツが一本(1967年7月10日)
- 一日だけの恋 c/w 僕のそばから(1967年10月15日)
- 愛なき夜明け c/w ふたりの秘密(1968年1月10日)
- 空に書いたラブレター c/w 君を慕いて(1968年6月5日)
※ 第2期メンバー。A面曲の原曲はThe Rooftop Singersの『Kites』。タイトルはアメリカのポピュラーソング『砂に書いたラブレター』からの引用。B面曲の原曲はLos Pekenikesの『Hilo De Seda (英題:In The Sunshine Days)』。
[アルバム]
- 君も僕も友達になろう(1967年11月10日)
情報提供・コメント