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嶺のぼる

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分類歴代ソロ

みねのぼる。1947年7月26日生まれ(75歳)、神奈川県相模原市出身。東京都三鷹市井の頭育ち。
本名:関山和雄。1966年の日劇ウエスタン・カーニバルにソロ名義で出演。「スクール三人組」の元メンバー。後の若杉一夫、関山和雄。

[関連ソロ・ユニット]

1963年4月、高校入学後に弘田三枝子のデュエット役に選ばれ、「嶺のぼる」の芸名で歌謡界に入る。同年、当時人気絶頂だったアイドルコーラスグループ「スリー・ファンキーズ」がダブルブッキングの仕事を組んでしまい、その穴をカバーするために急遽、西郷輝彦、島和彦と共に「スクール三人組」を結成。以降、ジャズ喫茶などで歌っていた。

その際に知り合ったジャニー喜多川に、「こういうバンドがあるんですけど」と高校生たちで結成した自分のバンドを売り込んだところ、ジャニーがバンドの音を聴きに来てくれた。当時、ジャニーズは「スマイリー小原とスカイライナーズ」などのフルバンドや、「ブルー・コメッツ」をバックに歌っていたが、ジャニーとしては「同世代のバンドでやりたい」という思いがあったため、「じゃあうちでやらない?」と言われてジャニーズのバックバンドとして採用され、1963年にジャニーズ事務所に入所。
ジャニーズ・ジュニア」のバンド名を与えられたが、嶺はバンドの中心人物だったため、バンド名が「嶺のぼるとジャニーズ・ジュニア」名義になった時期もあった。
以降は、高校に通いながら、放課後にテレビの歌番組に出たり、ジャズ喫茶などでもライブ活動を行った。

ジャニーズのバックバンドとして活動している最中に、当時ジャニーズの付き人をしていた飯野矢住代(付き人時代は本名の「飯野裕代」。ジャニーズ事務所の女性第一号タレント)と非常に親しくなる。
片親だった飯野は、嶺が家族と住む三鷹市井の頭2丁目のアパート「さかえ荘」に夕食を食べに頻繁に通い詰めていた。帰りは井の頭線の三鷹台駅から上りの電車に飯野と同乗し、一旦終点の渋谷駅まで2人で行くが車両からは下りず、やがてその車両が下りの最終電車として折り返し運転を始めると、飯野を神泉駅で下ろし、嶺だけ三鷹台駅まで帰るというのがいつものパターンで、恋人関係ではなかったが、飯野との交友は2年ほど続いた。

嶺は1966年にソロ名義で日劇ウエスタン・カーニバルに出演し、テレビ番組『ジャニーズ・ナイン・ショウ』&『ジャニーズ・セブン・ショウ』(日本テレビ)で演奏したり、ジャズ喫茶でライブ活動を継続。1966年4月27日公開の日活映画『青春大統領』にも、ライブ演奏のシーンで5名のメンバーがジャニーズと共に出演している。
バンド「ジャニーズ・ジュニア」は1966年中に解散。

ジャニーズ事務所退所後は、「若杉一夫」の芸名で、1968年3月1日にシングル『北国の夜 c/w 大好きなんだよ』をリリース。A面曲の曲中のセリフは女優の岩崎加根子、B面曲の女性コーラスはスクールメイツが担当した。のち学業専念により6ヶ月のスピード引退。
この2曲は2010年10月20日発売の4枚組オムニバスCD『CROWN RECORDS PW MASTER BLACK LABEL SINGLES COMPLETE COLLECTION vol.1』のDisc-2に収録された他、2016年4月13日にはMEG-CDのシングルとしても発売された。

その後、広告代理店などを経て、1979年に広告企画制作会社「セキ・インターナショナルジャパン」を設立(1989年に「株式会社 シーエムカンパニー」に社名変更)。本名の「関山和雄」名義でCMプロデューサーとして活躍し、サミー・デイヴィスJr.、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジーン・ハックマン、ケニー・ロギンス、スティング、ロイ・シャイダー、キム・ベイシンガー、夏目雅子、市川崑、川添象郎、高橋英樹、大塚寧々、宮沢りえ、シンディ・クロフォード、安室奈美恵など、錚々たる有名人と仕事をした。



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