たかはしよういち。1953年11月1日生まれ(69歳)、東京都渋谷区出身。
本名:髙橋洋一。筆名:高橋洋仁、高橋友仁。音楽家(作曲家、演奏家、指揮者など)。
日本大学鶴ヶ丘高等学校音楽科作曲専攻中退。バークリー音楽院(後のバークリー音楽大学)卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学大学院卒業。
別名:「Yoichi J. Takahashi, Ph.D.」(Ph.D.とはUCLAで取得した博士号のこと)。
愛称:日本国内「洋ちゃん」、米国「JAY」。
「JASRAC(社団法人 日本音楽著作権協会)」正会員。「アメリカ心臓協会(AHA)」 プレミアム・プロフェッショナル・メンバー。「日本循環器学会(JCS)」元・正会員。
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渋谷区立鳩森小学校、渋谷区立外苑中学校(後の渋谷区立原宿外苑中学校)を経て、日本大学鶴ヶ丘高等学校音楽科(この音楽科を含む「芸術課程」は後に廃止)の第2期生として作曲を専攻したが、既にプロとしてのオーケストレーションをしていたため、約一年余りで中退。
ベンチャーズやシャドーズなどの音楽に影響を受け、小学校の頃からバンドを結成。
中学に入学した1966年に、フォーリーブスの江木俊夫が同じ中学の1つ先輩に居た縁で、まだ坊主頭だった高橋もジャニーズ事務所へと誘われる。
1966年8月27日、初代ジャニーズのバックバンド「ハイ・ソサエティー」として、「第30回 日劇ウエスタン・カーニバル」にてステージデビュー。その後も様々なアーティストのバックを務め、1970年11月21日にはCBSソニーからレコードデビューも果たした。
1973年4月からは新バンド「スーパーエイジス」も結成した。
大のお婆ちゃん子であったが、17歳の時、東京都町田市でレコードキャンペーンがあった際、その祖母が危篤であるとの連絡を受ける。社長のジャニー喜多川も「帰ってあげなさい」と言う中、高橋は「最後まで仕事をしてからにする」と言って帰らなかった。その後、仕事を終えて祖母の元へ向かったが、時既に遅しで、死に目には会えなかった。
各放送局への出演や音楽担当をしている内に、管弦楽法(オーケストレーション)に興味を抱き、17歳の頃から既に大編成のスコアー譜を書くようになっていた。
幼年時代からSP盤のジャズのレコード(デューク・エリントンなど)を聴かされていた影響もあり、当時よく演奏していたグループサウンズに対しては徐々に嫌気がさしていたが、当時、高橋がリーダーを務めてたバンド「ハイ・ソサエティー」を簡単に脱退する事はできなかったが、バンド活動と並行しながら音楽家・服部克久に師事するようになる。
18歳の頃から一年半に渡って、テレビ東京『歌え!ヤンヤン !!』のビッグバンドの指揮や編曲を務めた。しかし同時に、劇伴(Film Score)などの仕事に対して、自分の実力の限界も感じ始めていた。
本格的な音楽家を目指すため、事務所の反対を押し切り、1974年1月の20歳の時にアメリカ・マサーチューセッツ州ボストン市の「バークリー音楽院(後のバークリー音楽大学)作編曲専攻」に留学。当校は4年制であったにもかかわらず、既に基本が出来ていたとのことで、8セメスター(学期)の内、運良く3学期が免除されて約2年で卒業出来た。
しかし高橋は更に半年間延長して、当時学内で最高峰と言われていたハーブ・ポメロイのクラス「ジャズ・コンポジション」にて、ポメロイの提唱する「コンセプションのライン・ライティング」、並びに、「デューク・ライティング」などのジャズ作曲法を、トランペッターの大越徹(通称:タイガー大越)らと共に学んだ。
この他、小澤征爾のリハーサル姿を見てクラシック音楽の管弦楽法や指揮法にも目覚め、同じくボストン市の「ニューイングランド音楽院」で数種の授業を受けたり、ニューヨーク市の「ジュリアード音楽院」では個人特別コースのレッスンも受けた。
1978年、マサーチューセッツ州ケンブリッジ市の「ハーバード大学(哲学科)」に入学。更に、過去の大学卒業(バークリー音楽院)の資格を使って、「MCAT(メディカル・カレッジ・アドミッション・テスト。医学大学院の入試)」を受けて合格し、「ハーバード大学医学大学院(Harvard Medical School)」で遺伝医学を学ぶようになった。
1979年より、「一般社団法人 日本音楽著作権協会」(JASRAC)の正会員となる。
1974年以降の留学中も、学校が休暇になる度に日本に帰国し、「スーパーエイジス」へ復帰したりを繰り返していたが、1980年3月、ハーバード大学医学大学院を中退して正式に帰国。以後、多くのテレビドラマ、CM、レコード、ステージ等の音楽担当として広く活躍。
徐々に仕事量も増えていく中、「日本アレンジャー協会(後の日本作編曲家協会、JCAA)」にも入会して編曲家となり、服部克久や中村八大などと協議する場所で勉強させられた。
その後、「たのきん3球コンサート」(1981年版)の音楽監督を最後にジャニーズ事務所を離れてフリーとなり、自分が作曲した曲以外は編曲しないようにもなった。1981年から1991年まで、日本テレビ『火曜サスペンス劇場』の音楽を、10年間に渡って100回以上担当。
なお、この仕事を辞める原因となったのは、新たにNHK・朝の連続テレビ小説『京、ふたり』の音楽担当を始めたからであった。当時のNHKでは、大きな番組を担当する際の契約で「民間放送局の仕事はしてはならない」という決まりがあった。そのため、NHKのテレビとFMの仕事だけに絞るようになった。
この『京、ふたり』の音楽担当をきっかけに、1991年3月、高橋はNHKの「贈収賄問題」を内部告発している。
この当時に結婚して一男一女をもうけている(高橋太陽、高橋メロディー洋子)。しかし1992年に離婚。子供たちの親権は妻側が持った。
1994年8月23日、アメリカに転居。カリフォルニア州ウェストウッドの「カリフォルニア大学ロサンゼルス校 医学大学院(UCLA Medical School)」へ入学。「音楽と身体(特に循環器)との関係」に興味を持ち、音楽、医学の研究、研鑽に努めた結果、音楽では「24平均率」の研究論文を発表。医学では、“音に起因する様々な体の現象”を研究し、
- 「不整脈の発生(CNSから伝達する心筋周囲の細胞変異“K-±Ca+αイオンチャネル”、および期外収縮)」
- 「拡張期緩徐拡張期脱分極(slow diastolic depolarization)」
- 「VF(嚥下造影)やFT(絶食療法)などとの因果関係の確立」、
などをテーマにした論文を、アメリカの患者支援団体「アメリカ心臓協会」(American Heart Association。略称:AHA)、「アメリカ脳卒中協会」(American Stroke Association。略称:ASA)で発表。
1998年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校 医学大学院を卒業して博士号(Ph.D.)を取得。医師免許は持っていないが、上記「アメリカ心臓協会」のプレミアム・プロフェッショナル・メンバーであり、日本国内でも、「日本循環器学会(JCS)」に所属していた。この他、「St. John’s Health Center」と、「Santa Monica UCLA Medical Center」にて、EMTP(緊急医療技師補助員)を務めたこともあった。
日本国内では「洋ちゃん」の愛称で親しまれ、テレビドラマやCM等の音楽担当が多かったが、年齢的に熟してくると、本人の意向でクラシックの前衛的な近代音楽の指揮やライブ活動、また、海外放送局の音楽担当などを行うようになった。
2012年初頭に日本語教師の資格を取得。
2018年末から品川区南大井のタクシー会社「天龍交通株式会社」(チェッカーキャブグループ)に入社してタクシー運転手に転身。2019年2月に同社を退社し、同年4月より大田区大森のタクシー会社「東京ヤサカ自動車株式会社」(同じくチェッカーキャブグループ)に入社。
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