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錦織一清

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分類歴代ソロ

1965年5月22日生まれ(57歳)、東京都世田谷区赤堤出身、3歳から江戸川区平井育ち。
デビュー:1978
デビュー曲:夜明けのレジェンド(1994.07.21)

にしきおりかずきよ。「少年隊」の元メンバーでリーダー。別名義:KAZZ NISHIKIORI。愛称:ニッキ(メンバー内では「ニシキ」)。少年隊でのイメージカラーは赤。

[関連ソロ・ユニット]

郷ひろみのファンだった姉がジャニーズ事務所に錦織の履歴書を送り、小学5年生の時にオーディションを受ける。1977年の小学6年生の夏休みに正式に入所。ジャニーズJr.となる。
初めての仕事は、フォーリーブスのディナーショーで客席のテーブルのろうそくに火を灯すキャンドルサービスだった。
1978年、小学6年生の3学期に、新生映画製作の16mmフィルムの教育映画「さようなら ぼくの犬ロッキー」に出演。その後、学業優先で事務所のレッスンを休む。
そのため、後に「少年隊」として共に行動することとなる東山紀之(1979年5月入所)や植草克秀(1980年2月入所)と初めて会ったのは、1981年3月だった。

わずか4歳にしてバック転を独学でマスターするなど、人並みはずれた身体能力を持っており、小学校の頃は校庭の朝礼台の上からバック宙をして遊ぶのが好きだった。
小学6年生でジャニーズJr.になってダンスレッスンを始めてからも、ダンスやアクロバットではJr.の中で群を抜いていた。
錦織がレッスンを休んでいた2年間(中学2~3年生。1979年4月~1981年3月)は、新しく入ったJr.たちの間で、「錦織という何でも出来るスゴい奴がいるらしい」との噂が広がり、半ば伝説の人物となっていた。事実、ジャニーズ史上、10代後半~20代前半頃の錦織のダンスのキレ、センス、しなやかさを超える者は存在しない。後輩の堂本光一が錦織のことを「ダンスの神様」と讃えている他、HIP HOP界の重鎮ダンサー・坂見誠二も、錦織のことを“一番弟子”だと認めている。
同じ少年隊の東山紀之も、錦織に並ぶほどの高いダンス能力を持っていたが、錦織は「天才型」、東山は「努力型」と呼ばれていた。2人ともダンスの振り覚えが異常に早く、たった一回だけで覚えてしまうため、2人は本番当日に振りを覚えることもあった。

レッスンを休んでいる間、1979年9月にはTBSドラマ『3年B組金八先生』のオーディションの話も来たが、当時中学2年生だった錦織には体育の先生になりたい夢があり、ドラマが始まると学校に行けなくなって困るという理由でオーディションの参加も辞退した。もしもオーディションに参加して合格していたら、その後のたのきんトリオや少年隊のメンバー構成は違うものになっていたかもしれない。

1981年3月に高校受験を終え、芸能活動に復帰。 まずはひかる一平の『青空オンリーユー』のバックダンサーとして活動を再開。

1981年「ジャニーズ少年隊」を結成。1984年5月21日、グループ名を正式に「少年隊」に改称し、1985年12月12日に歌手デビュー。

少年隊のデビュー曲『仮面舞踏会』の冒頭の歌詞「Tonight ya ya ya・・・tear」、そして2ndシングル『デカメロン伝説』の始まりのフレーズ「ワカチコ! ワカチコ!」、これらは全て錦織が、ワーナー・パイオニアのディレクター・松林天平と2人で考案したアイデアである。
『仮面舞踏会』の冒頭部分は当初は歌詞が無く、スタッフは少年隊に「La La La・・・」で歌わせる予定だった。
「ワカチコ」の由来は、スペクトラムの1979年のデビュー曲『トマト・イッパツ』の中に出てくる歌詞「ワッチコン! ワッチコンコン!」で、スペクトラムのファンだった錦織が、「ワッチコン」をアレンジした「ワカチコ」というフレーズをレコーディングの間奏中にふざけて連呼していた所、それを面白いと思ったディレクター・松林が錦織の声をサンプリングし、曲の中に正式に採用した。

事務所の先輩の中では、フォーリーブスの北公次を尊敬していた。2012年2月に北が逝去した際も、ジャニーズ事務所からは唯一、錦織だけが花を贈った。

子供の頃から年上の女性が好きだった。梶芽衣子、大信田礼子、池玲子、荒木由美子林寛子など。
これまでに、かとうかず子、岡田奈々との交際と、水沢アキとの不倫交際が発覚している。週刊誌『FOCUS』(1990年8月17日&24日合併号、新潮社)では、1990年7月某日の深夜2時に、当時ミュージカル『PLAYZONE ’90 SHOW劇 MASK』で共演中だった女優を六本木から車でお持ち帰りする様子が報じられた。
岡田奈々と交際していた時期には、ラジオ番組『錦織一清のスーパーギャング』にて、岡田のシングル『青春の坂道』、『求愛専科』を流したこともあった。1992年に交際が発覚した水沢アキとは、『週刊現代』(1993年6月12日号)で、ベッドで二人で肩を寄せ合う写真が掲載された。

また、錦織はダンサー・坂見誠二、そして友人であるジークンドーの師範・御舘透みたちとおるとの3人で、1997年4月9日に「(株)タオ・エンタープライズ」を都内に設立。錦織が出資をし、二子玉川にてジークンドー道場「ミタチJKDアカデミー」を開校(錦織も生徒として通う)。更に渋谷区でカフェバーもオープンした。

2003年12月12日、目黒区の祐天寺駅が最寄りの駒沢通り沿いに、ソウル&ファンク&ダーツバー「D+TRACKS LOUNGE」をオープン(当時の所在地:目黒区中町2-50-13 ザ・ピーク B1F)。店内は50坪で、ダイニングバーエリアとダーツエリアの2つのスペースがあり、錦織はいつもバーエリアの方に居て、度々そこでダンスも披露していた。パパイヤ鈴木、ブラザー・トム、原田泰造、速水もこみちなど、数多くの有名人が来店する店だったが、2007年1月26日に閉店した。

舞台『蒲田行進曲』に出演した際、つかこうへいに「銀ちゃんをやらせたらお前が一番だ」と言われた。また、2007年5月31日のNHK総合『スタジオパークからこんにちは』出演時にも、つかこうへいから電話で「つかこうへいという演出家の二代目を継がせるとしたら錦織だ。演出をやらせたい。声が艶っぽく、何をやらせても出来る子。動きが速く、全体を見る目も持っている」と言われている。

2020年12月31日、少年隊が解散、退所。

2021年10月29日、「KAZZ NISHIKIORI」名義で、CDマキシシングル『Cafe Uncle Cinnamon』、およびアナログEP『Song for you』を同時リリース。




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