70-80年代アイドル・芸能・サブカル考察サイト

ジャPAニーズ

コメント

分類歴代グループ

デビュー:1978.01

バックダンスグループ。愛称:ジャPA。1978年1月結成。1982年5月18日解散。
グループ名変遷:インフォメーション・ブラザーズ → ディスコ・メイツ → ジャパニーズ → ジャPAニーズ。

[メンバー]

[脱退メンバー]

  • デビッド・宮原(愛称:デビッド、デビ。板野と交代で脱退。1988年「PSYCHO HYSTERICS」結成。細野と共に「劇団前方公演墳」旗揚げ)
  • 舟喜豊(愛称:ゆたか。板野と交代で脱退)
  • ニック(初代リーダーだったが、結成から間もなくして脱退)
  • 他1名(グループがジャニーズ事務所に所属してすぐに脱退)

[サポートメンバー]

[関連ソロ・ユニット]

1978年1月、ボビーとトミーが、高田馬場のディスコ「リチャード三世」の常連客だったニックたちと知り合って意気投合し、6人組のソウルダンスグループ「インフォメーション・ブラザーズ(略称:インフォメーションズ)」を結成。
初代リーダーだったニックは途中で脱退。インフォメーションズのステージに魅了された乃生佳之(ノオチン)が加入。

当時(1978年)、アース・ウィンド・アンド・ファイアー(Earth, Wind & Fire)のシングル『宇宙のファンタジー(原題:Fantasy)』が大ヒットしていた。アースの日本リリース版レコードを担当していたディレクターが、「CBS・ソニー」の殿井隆だった。その繋がりで、CBS・ソニー所属のアーティストであるフォーリーブスが、同曲を日本語でカバーすることとなった(発売されたのは同年7月1日)。
これを機に、CBS・ソニーはプロモーションの一環で、同曲を課題曲としたダンスの全国大会「ファンタジーダンスコンテスト」を企画。コンテストの模様はテレビ収録もされ、フォーリーブスのおりも政夫が司会を務めていたバラエティ番組『23時ショー』(テレビ朝日)にて後日放送。このコンテストに、インフォメーションズも参戦することとなった。

インフォメーションズは本格派のソウルダンスだったため、コンテストの趣旨であるファンタジーダンスとは毛色が違い、大会では選外となったが、このコンテストを観ていたジャニーズ事務所のスタッフによって声をかけられた。役員面談でダンスの実力を披露した所、ジャニー喜多川に「Youたち面白いねぇ。フォーリーブスの解散コンサートがあるから踊ってよ」と認められ、事務所入りを果たした。本格派のソウルダンサーを自負していたメンバーたちは、ジャニーズのアイドル系の仕事に対して常に悩んで葛藤し、後に半分ものメンバーが辞めて行くこととなる。

ジャニーズ事務所に所属した際、グループ名を「ディスコ・メイツ」に改名。1978年7月26日から8月31日まで、フォーリーブスの解散コンサートツアーに帯同。
同年秋より、ジャニー喜多川の案で“世界に通用するように”と、グループ名が更に「ジャパニーズ」へと改名され、川﨑麻世の専属バックダンスグループとなる。

1979年4月15日~6月24日、日本テレビのダンス番組『ミュージック・ボンボン』に、ジャパニーズがテディ・団や「ピラミッド」と共にレギュラー出演。
また、同年4月からはNHK『レッツゴーヤング』にもバックダンサーとしてレギュラー出演。

1980年、デビッド・宮原と舟喜豊が脱退。入れ替わりで、同年6月1日に元「JJS」の板野俊雄が加入し、同日よりジャパニーズは田原俊彦の専属バックダンスグループとなった。
3オクターブ半の高さの歌声を持つ板野は、ジャパニーズに入る前に、まだ結成前だったロックバンド「LOUDNESSラウドネス」の初代ボーカルにも誘われていたが、それを断ってジャパニーズの方を選んだ。歌唱力のある板野が入ったことで、ジャパニーズはダンスだけでなくバックコーラスでも活躍するようになった。

1981年、グループ名表記を「ジャパニーズ」から「ジャPAニーズ」に改名。
ジャPAニーズは田原俊彦だけでなく、近藤真彦のコンサートのバックや、ひかる一平の歌番組出演時のバックにも付いたことがあった。

メンバー間での価値観の相違が絶えず、1982年5月18日、渋谷公会堂での田原俊彦のコンサートにて解散した。(田原のシングル『君に薔薇薔薇・・・という感じ』までバックに付いていた)

ジャPAニーズの後には、派生グループとして「ジャPAニーズ・ジュニア」と「ジャPAニーズHi!School」が誕生した。




歴代グループ

 

情報提供・コメント

タイトルとURLをコピーしました