70-80年代アイドル・芸能・サブカル考察サイト

田原俊彦

コメント

分類歴代ソロ

1961年2月28日生まれ(61歳)、神奈川県横須賀市出身、山梨県甲府市育ち。
デビュー:1977.08
デビュー曲:哀愁でいと(1980.06.21)

たはらとしひこ。愛称:トシちゃん(山梨時代は「たっぺ」)。
妻は元モデルの向井田彩子。長女は女優の田原可南子(旧芸名:綾乃美花)。次女も元アイドル、女優の青山奈桜。

[関連ソロ・ユニット]

1976年8月下旬、家族に内緒で山梨県から上京。飯倉片町(六本木5丁目)にあったジャニーズ事務所を直接訪れるが、事務所の前を10回以上も往復していた時、メリー喜多川の秘書・伊豆喜久江に不審者だと思われ、声をかけられる。伊豆に、「ジャニー喜多川社長に会わせて欲しい」と頼むと、有楽町の日本劇場に居たジャニーに連絡を取ってくれた。
日本劇場ではちょうど、川﨑麻世やずうとるびが出演する『第56回 日劇ウエスタン・カーニバル』が行われており、そこでジャニーと初対面。近所のレストラン「ジャーマンベーカリー」に行き、人生初のナポリタンをジャニーからご馳走して貰い、事務所のレッスンに通うことを認められる。
以後、毎週土曜日、もしくは日曜日に特急あずさ号に乗って上京し、テレビ朝日内で行われていたダンスレッスンに通い始める。ただし、“高校だけは卒業すること”が母親との約束であったため、高校への通学も続けた。

1977年8月、川﨑麻世が出演する『第57回 日劇ウエスタン・カーニバル』にて、いきなりソロで歌を一曲歌わせて貰い、ステージデビューを飾る。曲名については、田原自身も不明。

1978年の高校3年生の秋、テレビ朝日『とびだせ!パンポロリン』にて、歌と体操のお兄さんとして出演していた「ギャングス」の松原秀樹が、日本テレビのドラマ『ゆうひが丘の総理大臣』のレギュラー出演で忙しくなったため、田原が松原の代役という形でパンポロリンに出演するようになり、本格的なテレビデビューを飾る。

1979年3月1日、高校の卒業式を終えた直後上京。
川﨑麻世のバックコーラス&ダンスグループ「ピラミッド」を、曽我泰久長谷部徹と共に結成。同年4月15日~6月24日に、毎週日曜夜7時から30分間放送していた日本テレビのダンス番組『ミュージック・ボンボン』にもピラミッドとして出演。この番組には「ジャパニーズ(後のジャPAニーズ)」も共演。

1979年6月、フォーリーブスおりも政夫がミュージカル『南太平洋』に出演した際に、1ヶ月間だけおりもの付き人を経験。おりもからは「僕ちゃん」という愛称で呼ばれ、非常に可愛がられた。

1979年7月21日公開の東映映画『わが青春のイレブン』に、川﨑麻世扮するロックシンガー・赤岡のバックバンドのギタリスト役で出演。 この映画には、森谷泰章橋本美砂子、ジャパニーズ、曽我泰久も出演。主題歌・挿入歌は青山孝が担当した。

1979年9月、TBSドラマ『3年B組金八先生』の追加オーディションに合格。翌10月26日に、生徒・沢村正治役として俳優デビュー。後に、同じく生徒役だった近藤真彦野村義男と共に「たのきんトリオ」と呼ばれる。

近藤と野村が「金八」出演時に実際に中学3年生だったのに対し、田原は既に高校を卒業した18歳(放送中に誕生日を迎え19歳)だったため、金八のオーディションを受ける時には、事務所の意向で二人と学年を揃えて、実際は4歳若く詐称してオーディションを受けていたにもかかわらず、スタッフには「3歳若くしていた」と更に年齢詐称。その年齢とのつじつまを合わせるため、高校も「2年一杯で中退」とせざるを得なかった。この件については、後に歌番組の中で謝罪している。

1980年4月から、NHKの歌番組『レッツゴーヤング』にもレギュラー出演し、「サンデーズ」のメンバーとして1981年3月まで活動し、1981年4月からは同番組の司会を担当(1982年3月まで)。

1980年6月、たのきんトリオの先陣を切り、レイフ・ギャレットの曲『ニューヨークシティナイト』を日本語カバーした『哀愁でいと (NEW YORK CITY NIGHTS)』で歌手デビュー。 キャッチフレーズは「熱く激しくしなやかに」。以降、1980年代のトップアイドルに躍り出る。

「たのきんトリオ」としては、1981年に「たのきん3球コンサート」を開催し、第2回目(1983年)の同コンサートをもって解散。

1982年、マルベル堂のプロマイド年間売上実績の男性部門でトップに輝く。

ファンによるステージ用の応援コールも生まれた。代表的なものは「T・O・S・H・I スーパーアイドルLOVE俊ちゃん!」。

1983年1月29日&30日には、有楽町の東京宝塚劇場を使ったソロコンサート『ヤング・コミュニケーション ’83 Toshi in 宝塚』を開催(2日で5回公演)。このコンサートは劇場用に映画化され、後にビデオ化もされた。

1984年7月、ロサンゼルスオリンピックの聖火ランナーを務め、ロスのリトルトーキョーを200~300メートル走った。

『哀愁でいと (NEW YORK CITY NIGHTS)』から『ジャングルJungle』までオリコンシングルの連続TOP10入り37作の記録を持ち、TOP10入り38作はサザンオールスターズの両A面シングル『愛と欲望の日々 / LONELY WOMAN』に破られるまで歴代1位だった。またTBS『ザ・ベストテン』では最多出場記録を持っており、同番組には田原の名前入りの青いソファーが1988年1月7日よりスタジオに設置されていた。(この椅子は、1987年12月31日放送の際に紹介された)

『ザ・ベストテン』と同様に1980年代を代表する歌謡番組の雄に位置づけられるフジテレビ『夜のヒットスタジオ』に初出演したのはデビュー9日後の1980年6月30日放送の回(この回では吉田拓郎、河合奈保子鹿取洋子も初出演)であった。
それ以降、原則月1回~2回のハイペースで出演を続け、番組終了(1990年10月)までのわずか10年の間で実に158回もの出演回数を記録。番組が『夜のヒットスタジオDELUXE』と改題され、2時間枠に放送時間を拡大したのを機に新設されたマンスリーゲストにも歴代最多の3回(1985年5月、1986年12月、1989年6月)抜擢されるなど、同じく3回マンスリーを経験した郷ひろみと並び、「ミスター夜ヒット」として、番組内では最重要の厚遇を受けていた。

テレビドラマ『教師びんびん』主演当時には、教え子役の子役たちとの共演で、ドラマ主題歌の『ごめんよ 涙』を披露、座長公演の最中での出演時には、その舞台での衣装のまま番組に登場、渡辺貞夫、久保田利伸などとのセッションを行うなど、印象深いパフォーマンスを数多く番組内で披露した。
レギュラー放送最終回である1990年9月19日放送では、これまでの番組への多大な貢献に敬意を表する意味で“トリ”を任され、スタジオを駆け回りながら『ジャングルJungle』を熱唱した。

1980年から1986年まで、『NHK紅白歌合戦』に7年連続で出場していた。しかし1987年は歌手活動よりも俳優業に本腰を入れていたせいもあってか、シングルは『KID』、『“さようなら”からはじめよう』、テレビドラマ『ラジオびんびん物語』の主題歌『どうする?』の3枚が発売されていたものの、まさかの落選。発表時に『NHKニュース』で松平定知アナウンサーが「田原俊彦さんの名前はありません」とわざわざ報じたほど、当時の衝撃は大きかった。田原自身も、ファンへの申し訳なさから悔し泣きをしたと語っている(週刊文春、2019年5月23日号)。

翌1988年には、シングル『抱きしめてTONIGHT』がテレビドラマ『教師びんびん物語』の高視聴率とリンクしたこともあり、久々の長期的ヒットに発展。田原はディナーショーのリハーサル中に、同年の紅白に当選したとの一報を受けるが、出場を辞退したかった田原は、その場でジャニー喜多川やスタッフらと協議。その結果、出場者発表後に辞退を表明した。過去の紅白では、病気や不祥事などで辞退というケースは何度かあったが、「出たくない」という理由で辞退したケースは、田原と、1970年の江利チエミの2人のみだったため、当時のマスコミには「前年度の腹いせ辞退」と書かれた。

なお、「田原自身は紅白再出場に意欲的であったにもかかわらず、田原の代役として繰り上げ出場となった男闘呼組を選出させるために、事務所サイドが田原を辞退させた」という説も当時囁かれたが、それは誤り。田原自身が自分の意思で辞退した旨を後に語っている(週刊文春、2019年5月23日号)。

ただ、1988年の田原は、「日本レコード大賞」にもノミネートされていない。『抱きしめてTONIGHT』はTBS『ザ・ベストテン』で年間ベストテン第1位に輝くほどのヒットを得ていたし、前年には近藤真彦が『愚か者』でレコード大賞を獲っており、次は田原が獲ってもおかしくなかったが、当時人気絶頂期にあった光GENJIに大賞を獲らせるため、これは事務所サイドが田原のノミネートを辞退させたと見られている。そのためか、『抱きしめてTONIGHT』は「日本有線大賞」でベストヒット賞に選ばれたものの、田原は会場での歌唱披露も固辞した。
田原は翌1989年にも『ごめんよ 涙』がヒットしたが、もう紅白から招かれることは無かった。
その後しばらくNHKの番組には出演していなかったが、1994年になって『ふたりのビッグショー』(松田聖子と共演)、2005年には『思い出のメロディー』に出演した。

写真週刊誌『FOCUS』の1989年8月11日号に、ジャニーズ事務所の合宿所内で、ジャニー喜多川に撮影された田原の全裸のポラロイド写真が流出掲載。

女性関係ではデビュー以来、三原じゅん子松田聖子(交際まではしていないが、よく楽屋でベタベタし、キスはしていたと田原自身がテレビやラジオで告白)、1984年の暮れに荒川区町屋在住の19歳の短大生(田原の親衛隊の女性。雑誌『ZOOM in』1985年6月号などに掲載)、篠ひろ子、西山由美中山美穂、AV女優の梶原恭子、工藤静香田中美奈子(1989年の後半から)、飯島直子らと浮名を流していたが、田原が雑誌の連載を持っていた関係で編集者から紹介されたモデルの向井田彩子(1971年9月23日生まれ(51歳)、神奈川県出身、O型)と、1993年10月17日に入籍した。

1991年1月、個人事務所「DOUBLE “T” PROJECT」を設立。ジャニーズ事務所に所属しながらも、ほとんどの仕事はこの個人事務所で独自に受けるようになった。1994年3月1日、ジャニーズ事務所を退所。

1994年2月14日、長女(後のグラビアアイドル・綾乃美花 → 女優・田原可南子)誕生会見でマスコミ嫌いの田原の『何事も隠密にやりたかったんだけど、俺くらいビッグになっちゃうと、そうはいきませんけどもね。』の「ビッグ発言」により、マスコミの反感を買い、テレビ出演などの仕事は激減、CM契約打ち切りにも発展。
この人気の急落は世間的には「ビッグ発言」が原因とされているが、バッシングが始まったのは会見後すぐではなく、1994年3月1日発売の「週刊女性」から。この日は田原のジャニーズ事務所退所日と重なる。まさにジャニーズという後ろ盾を失った瞬間からのバッシング。「ビッグ発言」は1989年頃からインタビューなどで度々冗談まじりに発言されてきたが、当時は問題視されてなかった。

その後、個人事務所が田辺エージェンシーと提携して、一時はタレント活動の機会は増える傾向にあったが、提携解消後は再び減少。これ以降、田原は芸能関係者やマスコミから、嘲笑(ネタ)の格好の餌食とされ、その反面、長年のライバルである近藤真彦が、芸能関係者やマスコミから比較的受けが良いという状況が生まれてしまった。

ジャニーズを退所した田原に対し、その後ジャニーズ事務所所属のタレントとの共演に明確なNGが出されているかについては不明だが、実際に共演が確認されたのは、独立直後の1994年と1995年に『夜のヒットスタジオ』のスペシャル版、そして1994年のテレビドラマ『半熟卵』だけである。『夜のヒットスタジオ』では田原がテレビ画面上でジャニーズタレントと会話を交わしたシーンは無く、一緒に歌った訳でもない。

また、田原は自身のブログにて、かつてフジテレビ『SMAP×SMAP』に出演交渉をしたものの、拒否されてしまったことを明かしている。『週刊女性』(2009年6月9日号)の取材でも田原は、「ジャニーズにいた方が安泰だったとは思います。事務所を離れてからは、テレビ局のプロデューサーとかがビビって“田原俊彦とジャニーズのタレントを一緒の番組には出せない”なんてことが起きました。わざわざ去った人に協力する必要はない。ジャニーズ帝国というのは、外に出て行く人間に対しては絶対的にNOなんですよ」と語った。
野村義男は、「いつかはたのきんトリオをやりたいね」と語っているが、田原とジャニーズタレントとの共演が現実的に困難な状況もあり、再結成の実現は極めて厳しいと見られている。

独立後も地道に歌手活動を続け、毎年新曲を発表。
2005年には歌手デビュー25周年を迎え、ライブやディナーショー、クラブイベントを行い、主婦層など一部の根強いファンの間で熱い支持を受けている。

2007年10月4日、5万円を払えば誰でも「記念日」を作れる「日本記念日協会」に登録し、10月4日を「トシ(104)の日」と制定。当日は西麻布の「CLUB XROSS」にて、「104 the NIGHT in Nishiazabu」と題したクラブイベントも行った。以降、毎年10月4日に開催。

2011年5月、田原の長女・可南子が「ミスマガジン2011」の最終候補者ベスト15の一人、綾乃美花であることを週刊誌やワイドショーが報じた。所属事務所はスターダストプロモーション。
次女・奈美子も2012年より青山奈桜あおやまなおの芸名でやはりスターダストプロモーションに所属し、アイドル、女優として活動していた。

『FRIDAY』(2015年4月17日号)にて、28歳年下の女優・吉田恵智華(26歳)と、田原の愛車ゲレンデヴァーゲンで深夜2時過ぎまでデートしたり、彼女の自宅マンションや都内の高級ホテルで頻繁に密会していることが、2ショット写真付きで報じられた。
更に『スポニチ』も、4月2日の深夜に都内のレストランで食事をしていた2人を捕らえ、写真付きで報じた。日本テレビ『情報ライブ ミヤネ屋』に直撃された田原だったが、不倫関係については否定した。
しかし、このスクープによって夫婦間には亀裂が生じ、田原が家を出ていく形で夫婦別居生活となった。その後も田原は、毎回違う女性たちとのデートを重ねていることが、『FRIDAY』(2017年11月3日号、2018年9月21日号、2019年7月12日号、2020年6月19日号)、『女性自身』(2019年4月2日号)などによって幾度も報じられた。




歴代ソロ

 

情報提供・コメント

タイトルとURLをコピーしました