まさきしんや。1969年5月29日生まれ(53歳)、山口県玖珂郡和木町出身、神奈川県藤沢市育ち。
「忍者」の元メンバー。愛称:慎くん。
[関連ソロ・ユニット]
小学校5年生の時、田原俊彦が歌の途中でバック転をしている姿に憧れ、渋谷区神南のNCビルにあった「ジャニーズファミリークラブ」へ、友人と一緒に履歴書を渡しに行く。その結果、小学6年生の3学期、1982年1月17日(日曜日)になって、ジャニーズ事務所に入所。同期生は大沢樹生と石丸志門の2名。(オーディション日、入所日について「1月10日」や「1月16日」と書かれた文献が存在するが、いずれも誤り)
1982年初頭、入所から間もない段階で、テレビ東京『ザ・ヤングベストテン』にてテレビ初出演。
1985年、「少年忍者」のメンバーとなる。
あまり知られてはいないが、1987年初頭の、まだGENJIが結成される前、東京マリンや後楽園で行われていたローラースケートのレッスンに正木も参加している。
雑誌『週刊セブンティーン』1987年2月17日号、3月3日号、3月24日号にて、宮沢りえとツーショットで表紙を飾る。
少年忍者の活動と並行しながら、1987年2月21日、萩本欽一プロデュースのアイドルグループ「おめで隊」としてレコードデビュー。
1990年8月22日、「少年忍者」の後身グループ「忍者」としてCDデビュー。
『PEARL BOOK ヘアマガジンMEN’S』(1992年秋冬号、講談社)にて、雑誌の単独表紙を飾る。
1997年に忍者が活動を休止。
1999年のミュージカル『ONESTEP TO MUSICAL』で共演した森奈みはる(堀越高校・芸能コース卒業後に宝塚に入団した女優)との交際が発覚している。
女性お笑いコンビ「オセロ」の松嶋尚美が、正木慎也の追っかけをしていたことをテレビや雑誌で度々告白している。自身が芸能界入りした後も、正木が舞台に出演する際には毎回花を贈っていた。他には、元アイドルの中嶋美智代も正木のファンであった。
男闘呼組の成田昭次とは、バイクを通じて仲が良く、成田は正木の藤沢の実家にも何度も訪れている。ちなみにジャニーズ時代の正木の愛車(バイク)は、カワサキの「GPZ400R Ninja」。ヘルメットはアライの「フレディー・スペンサー」モデルを愛用していた。
また、ジャニーズ時代は少年隊の植草克秀とも仲が良く、いつも2人で霞ヶ浦へブラックバスを釣りに行っていた。
2000年一杯でジャニーズ事務所を退所。
退所後は約1年間、自分探しのために旅をしたり、夏場は地元・江ノ島の海の家の前で、缶ジュース販売のアルバイトもしていた。
その後、中学校の先輩(「有限会社 唐口屋」の社長)に頼み込み、先輩が目黒区自由が丘で経営していた韓国料理店「唐口屋 自由が丘店」の店長職を、月30万円の給料でやらせてもらう。(2007年に閉店)
正木は元芸能人だとバレないように偽名の名札を付け、配膳や清掃の他、大学生のアルバイト約30名の給与の計算やシフト調整も担当していた。しかし休みもロクに取れない程の多忙に耐えきれず、10ヶ月で退職。その10ヶ月間で取れた休みは、たったの1日だけだった。
続いて、代々木八幡のハウスウェディング「RAPHAEL(1997年オープン)」の厨房に数年間勤務した。(ラファエルは2021年5月31日をもって代々木八幡の店舗を閉店し、同年7月中旬に赤坂に移転して再開)
ジャニーズ時代は右目だけが一重瞼だったのが特徴で、そのアンバランスな目が醸し出す独特の雰囲気が魅力・個性の一つだったが、ジャニーズ退所後に右目をクッキリ二重に整形し、自らその魅力・個性を消してしまった。
2003年7月発売のVシネマ『梁山泊 仁義なき頂上決戦』より芸能活動を再開。舞台を中心に活動するかたわら、自作のオリジナルアクセサリーの販売をしたり、「ドライブデート(略称:DD)」と称して、ファン3~4人を車に乗せ、30分ごとに助手席に座るファンを交代させながらドライブするという内容のファンイベントを、日本各地で定期的に開催。また、2004年から4年間に渡ってブロードバンド番組「スターチャット.TV」(セレクトチャンネル)に出演し、ファンとのチャット交流もしていた。
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