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小坂まさる

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分類歴代ソロ

こさかまさる。1957年9月27日生まれ(65歳)、大阪市天王寺区出身、大阪府河内市 → 4歳から大阪市住吉区育ち。愛称:ヒデ坊、マチャル。
元「ジャニーズ・ジュニア(第1期生)」のメンバー。

[関連ソロ・ユニット]

1972年6月、大阪市立住吉中学校3年生の時に、よみうりテレビの新番組『GO!GO!ヤング』の公開収録を友達と豊中市民会館に観に行き、一般参加のリンボーダンス大会に飛び入りで参加した所、それまでの最高記録であった45cmをクリアして見事に優勝した。優勝賞品はグアム旅行だった。

それから半月後、東京でその様子をたまたまテレビで観ていたフォーリーブス北公次が小坂のことを気に入り、社長のジャニー喜多川に推薦。そしてジャニーが小坂宅の電話番号を調べて電話し、大阪フェスティバルホールでのフォーリーブスのコンサート、および食事に招待する。その結果、小坂は同年9月21日に上京してジャニーズ事務所に入所することとなった。

当初は事務所期待の有望株として、ソロで売り出されていたが、1973年半ば頃より「ジャニーズ・ジュニア(第1期生)」の枠組に入れられるが、雑誌のピンナップでは「小坂まさる&ジャニーズJr.」と紹介されたり、小坂だけがテレビドラマに多数出演したり、1974年4月よりフジテレビ『君こそスターだ!』にソロでレギュラー出演するなどの厚遇を得ていた。

1974年夏、「ジャニーズ・ジュニア (第1期生)」が、2つのグループに分割。一つはフォーリーブスのコンサートのバックダンサーチームとして作られた3人組で、「ジュニア・スペシャル」という新たなグループ名が与えられた。残りの6名は、特に新しいグループ名は与えられず、元の「ジャニーズ・ジュニア」名義のままで郷ひろみのコンサートのバックを務めた。
小坂は郷ひろみの方のバックに付いていたが、フォーリーブスの北公次を尊敬していたために「フォーリーブスのバックで踊りたかった」という不満を抱いていた。また、ジュニア・スぺシャルのメンバーに選ばれなかったことについて近藤純市も、「“ジュニア・スペシャル”の方が特別に聞こえる。僕らはハンパもんにされたみたい」と漏らすようになっていた。
そして、夏のコンサートを終えた1974年9月、ついに小坂は近藤と共にジャニーズ事務所からの退所を宣言し、それまで住んでいたジャニーズの合宿所からも飛び出した。2ヶ月後の同年11月には、同じくジュニア1期生の山縣孝良、鈴木寛、吉田義久、柏木孝夫らも後に続き、一斉にバーニングプロダクションへと移籍した。バーニングは、翌1975年3月に先輩の郷ひろみが移籍することが既に決定しているプロダクション。

バーニングへ移籍後、元ジュニアたち6名は新グループ「メッツ」を結成。1975年2月23日に大阪の枚方市民会館にてステージデビュー。同年11月25日にはレコードデビューも果たした。

髪型をパンチパーマのリーゼントにしたり、当時の男性アイドルとしては珍しく耳たぶ(左側)にピアスの穴を開けるなど、不良性を前面に押し出していた。

1976年12月29日にメッツが一時解散。

小坂はソロで芸能活動を続け、1977年2月12日には大阪千日前・ユニバースにて1時間のワンマンショーも行い、演歌も歌った。
1977年4月より日本テレビ『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にレギュラー出演し、当番組の中で、バリカンで丸坊主にされてしまったことがある。

1978年、「カワダブラザースカンパニー」に移籍し、メッツを復活させるも、2枚のシングルと1枚のアルバムをリリースしたのみで、翌1979年に再び解散。
その後、カワダブラザースカンパニーから「プラスワン」に移籍。数々のテレビドラマに出演した。

芸能界を引退後は「小坂産業」を設立し、新宿二丁目にパブスナック、六本木にレストランをオープン。

小学生の頃からの夢だった政治家になるべく、1983年に自民党に入党。アフリカ救済運動にも参加。

1984年、ボランティアグループ「技術伝導センター」を設立。このセンターの主旨は、身体障害者や高齢者の社会的自立を促すことで、まず彼らに対し、コンピューターの使い方や着物の着付けなどの技術を持っている人たちが無償で教育を施し、技術を覚えた者には就職先も斡旋しようとするものだった。

しかし、「技術伝導センター」で身体障害者や高齢者に教育を施しても、彼らを受け入れてくれる就職先が無かったため、もっと広くに活動を宣伝するため、経営していた六本木のレストランを売却して資金を作り、1985年7月7日の東京都議会議員選挙に、六本木を本拠地とした港区から27歳で立候補した。ただし公示の2週間前に立候補したため、自民党の公認に間に合わず、無所属での出馬となった。小坂の選挙ポスターには、「日本の伝統技術を伝える!」とのキャッチコピーが添えられた。しかしこのポスターは、ファンなどによって片っ端から剥がされてしまった。そして選挙の結果は落選。これらの模様は、雑誌『週刊平凡』(1985年6月28日号)、『ZOOM in』(1985年9月号)、『セクシーフォーカスSCOOP』(1985年9月号)に掲載された。

1985年7月22日、東京都港区三田で、便利屋「小坂まさる おタスケマンセンター」を開業。約50名の大学生アルバイトを雇っていた。

1985年11月、今度は東京都港区議会議員の補欠選挙に立候補するも、やはり落選。

その後、「一般社団法人 全国教育問題協議会」の常任相談役に就任。「子供の頃から福祉に関心を持つような教育の場を作る」をスローガンに、教育問題に取り組む。

1987年4月、改めて東京都港区議会議員選挙に立候補するも、やはり落選した。(『FLASH』1987年5月5日号)

1980年代後半に結婚。男児を2人もうけたが、1990年代に離婚した。

その後は、地元の大阪でナイトクラブを経営。週刊誌の「あの人は今」の記事では、女性ホステスに囲まれながらハーレム王の様なポーズをとっている姿が紹介された。

2000年代からは、都内で経営コンサルタントの会社役員。WEB制作会社「アンビーマテリアル株式会社」(2008年4月創業、2011年4月設立)などをコンサルティングした他、「特定非営利活動法人 青少年ワールドサポート21」の代表世話人や、美容クリニック「紀尾井町プラザクリニック」の顧問理事も務めた。




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