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明治・大正はやり唄

明治・大正はやり唄

日本の流行歌は1868(明治元)年、朝廷の命により江戸へ向かう薩長連合軍の士気を鼓舞するための進軍歌「宮さん宮さん」に始まる。
明治時代の流行歌は「宮さん宮さん」「抜刀隊ばっとうたいの唄」などの軍歌に代表される洋楽調、「お江戸日本橋」「ぎっちょんちょん」などの日本調、そして、自由民権運動に携わる「壮士そうし」と呼ばれる人々による演歌の三つに分類される。

壮士による演歌は「壮士節」と呼ばれ、街頭でさかんに歌われた。
明治の中頃になると、学問を志して上京する苦学生が増える。彼らは学費を稼ぐために演歌を歌い、それらは「書生節」と呼ばれ、演歌の主流となっていった。

大正時代に入ると演歌師は、「浅草オペラ」で歌われるアリアの替え歌などで世相の風刺を行っていた。街頭で流行歌を歌う演歌師は大正時代まで数多く存在したが、昭和の時代に入り、レコードの普及とともに姿を消していった。
また、島村抱月しまむら ほうげつの芸術座公演は劇中で松井須磨子によって歌われた「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」のヒットもあり、大好評となる。
これらを作曲した中山晋平は大正期最大のヒット・メーカーとして数多くの童謡、民謡、流行歌をヒットさせた。

川上音二郎 (1864-1911)

九州・博多に生まれる。
自由民権運動に携わり、大阪や東京で政府を批判する政談演説を行い、投獄される。
その後、落語家・桂文之助に弟子入りし、浮世亭○○うきよてい まるまると名のる。
1889(明治22)年、政治、社会をコミカルに風刺した「オッペケペー節」が大ヒットする。
1890(明治23)年には一座を組み、東京や横浜で「板垣君遭難実記」などの壮士芝居を演じる。日清戦争時の1894(明治27)年には戦争劇を上演し、好評となる。1896(明治29)年、神田に川上座を建設する。
1899(明治32)年には妻で女優の川上貞奴等とともにアメリカに渡り、巡業公演を行う。1900(明治33)年にはパリ万博で公演。帰国後は「オセロ」「ハムレット」などの翻訳劇を上演する。1910(明治43)年には大阪に純洋風の帝国座を建設する。
四度の海外公演、欧米作品の翻訳上演など新しい演劇の製作、あるいは女優養成所の設立など、日本の演劇界に残した功績は絶大である。

おすすめCD

甦るオッペケペー
川上音二郎と貞奴の声は入っていないが、1900年パリ万博にてEMIが録音した、日本人初の商業録音である明治時代の芸人、川上音二郎一座の音源をCD化。

若宮万次郎 (1866-?)

名古屋の神職の家に生まれる。
上京し、浅草で剣舞の一座に入り、活躍する。1889(明治22)年、日清間の切迫した状況を歌った「欣舞節きんぶぶし」を作詞・作曲、この歌は日清戦争時には盛んに歌われた。
1891(明治24)年、川上音二郎一座の旗上げとともに一座に加わる。川上一座をやめた後は、山口定雄一座にも参加した。

川上貞奴 (1871-1946)

日本橋葭町の芸者屋の養女となり、小奴の名で芸者となる。
1894(明治27)年、壮士芝居の役者・川上音二郎と結婚。川上一座の女優として、1899(明治32)年のアメリカ巡業公演で貞奴の芸名で初舞台を踏む。
帰国後、1903(明治36)年には明治座での翻訳劇「オセロ」のデズデモーナ役が日本初舞台となる。
その後も数多くの翻訳劇のヒロインを演じた。1908(明治41)年、東京に帝国女優養成所を設立、所長として女優育成に努める。音二郎の死後は、貞奴一座として国内外で巡業公演を続けた。

久田鬼石ひさだきせき

演歌壮士による団体、青年倶楽部を結成、演歌の制作、読み売りの他、民権派の選挙運動にも携わる。
1887(明治20)年、「改良節」を作詞・作曲。1889(明治22)年には、青年倶楽部の作曲による「愉快節(帝国議会の唄)」を作詞。同年、吉田於兎との合作で「やっつけろ節」を作詞・作曲。

添田唖蝉坊そえだ あぜんぼう (1872-1944)

神奈川県・大磯に生まれる。
1891(明治24)年頃から三浦半島や房総半島を流して、演歌を歌う。
1899(明治32)年頃から、替え歌などで社会風刺を始める。1907(明治40)年、「ああ金の世や」がヒットする。1910(明治43)年「増税節」、1911(明治44)年「むらさき節」、1912(明治45)年「奈良丸くずし」と数多くの演歌を作詞・作曲する。
大正期に入っても、1915(大正4)年の「青島節」、1918(大正7)年の「ノンキ節」などをヒットさせるが、その後、取り締まりの厳しい時代となり、表舞台からは消えた。

不知山人しらぬいさんじん (1872-1944)

添田唖蝉坊の筆名のひとつ。
1892(明治25)年、「ゲンコツ節」「チャクライ節」、1895(明治28)年には「四季の歌」を作詞・作曲。
1900(明治33)年、「東雲節」を作詞・作曲。熊本や名古屋の遊郭・東雲楼で起こった遊女のストライキ、娼婦の自由廃業運動がきっかけとなり、この歌は大流行した。
また、日露戦争時には「よさこい節」を変調した「ロシャコイ節」を作詞。

益田太郎冠者ますだ たろうかじゃ (1875-1953)

三井財閥社長・益田孝男男爵の長男。
英国留学後、帝国劇場の文芸担当重役となり、30以上もの女優演劇の脚本を手掛ける。ユーモラスな音楽と舞踊を使った女優劇は浅草オペラや松竹少女歌劇に先んじたものであった。
後に浅草オペラでも数多く上演された「カフェーの夜」で歌われる「おてくさん」の作詞、「コロッケーの唄」の作詞・作曲もしている。

松井須磨子 (1886-1919)

長野県埴科郡に生まれる。
1909(明治42)年、文芸協会演劇研究所第一期生となる。1911(明治44)年、「ハムレット」のオフィーリアで初舞台を踏む。
島村抱月との恋愛問題で会長の坪内逍遥と抱月との関係にひびが入ると、抱月とともに協会を退会。1913(大正2)年、芸術座を旗上げし、「モンナ・ヴァンナ」「カルメン」「サロメ」などに主演する。特にトルストイ作「復活」の劇中で歌った中山晋平作曲の「カチューシャの唄」が大ヒット。
また、ツルゲネフ作「その前夜」の劇中歌「ゴンドラの唄」もヒットさせる。
1919(大正8)年、島村抱月がスペイン風邪で急死すると、その二ヶ月後、有楽座での舞台「カルメン」が終わった夜更け、抱月の後を追って自殺した。
日本の本格派女優第一号として、その後の新劇界に残した功績は大きい。

神長瞭月かみなが りょうげつ (1888-1976)

栃木県・塩谷に生まれる。
1907(明治40)年、女学生が恋人に捨てられ自殺するといった内容の歌、「松の声(女学生堕落の歌)」を根気強く歌いつづけ、ヒットさせる。
演歌に初めてバイオリンを使い、1908(明治41)年「残月一声ざんげついっせい」、1909(明治42)年「ハイカラソング」など自ら作詞・作曲した歌をヒットさせる。
朗々とした歌声で、1913(大正2)年には演歌を初めてレコードに吹き込んだ。

鳥取春陽とっとり しゅんよう (1900-1932)

岩手県に生まれる。
1922(大正11)年、「ピエロの唄」「馬賊の唄」を作曲、自ら歌い、レコードにも吹き込んだ。
1923(大正12)年には「篭の鳥」を作曲、大ヒットさせる。1924(大正13)年にも野口雨情作詞の「すたれもの」「赤いばら」を作曲。

添田さつき (1902-1980)

活版工、夕刊売りなどの仕事をしていたが、父親・添田唖蝉坊の演歌活動に参加する。
1919(大正8)年、「ジョージア・マーチ」の調に詞をつけた「東京節(パイノパイノパイ)」や「平和節」、「デモクラシー節」で政治や社会を皮肉り、ヒットさせる。
1923(大正12)年、「復興節」を作詞・作曲、関東大震災で落ち込んだ人々の心に勇気と希望を与えた。1924(大正13)年には「ストトン節」を作詞・作曲、「月は無情」を作曲する。
昭和に入ってからは文筆活動を始め、「小説教育者」で新潮文芸賞、「演歌の明治大正史」で第18回毎日出版文化賞を受賞。

石田一松 (1902-1956)

広島県安芸郡に生まれる。
1920(大正9)年、上京し、法政大学に入学する。その傍らで、演歌の流しをして生計を立てる。
1925(大正14)年、「ノンキ節」の替え歌で「のんきな父さん」をヒットさせる。翌年、作詞・作曲した「酋長の娘」は1930(昭和5)年にポリドールから新橋喜代三の歌で発売される。
1931(昭和6)年、吉本興業の専属となり、時事風刺の歌を歌う。
1946(昭和21)年、第一回衆議院選挙に当選、旧民主党の代議士となる。その後も4回の当選を果たす。

桜井敏雄 (1909-1996)

東京都台東区に生まれる。
骨董商の家に生まれるが、1923(大正12)年の関東大震災を機に家を出て、石田一松に弟子入りする。ヴァイオリン演歌で東京近辺を流して歩き、明治・大正期の演歌を歌う。
また、上原げんと、岡晴夫が流しをしている頃の師でもある。80歳を超えても、現役演歌師として歌い続けた。

金子潔 (1913-1986)

長崎平戸に生まれる。
1926(大正15)年、上京し、倉持愚禅主宰の東京青年倶楽部に所属。添田唖蝉坊の指導も受ける。「ノンキ節」「東京節(パイノパイノパイ)」「水郷の唄」などの演歌を歌った。

@伊藤家の書斎

 



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