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浅草オペラ歌手

浅草オペラ歌手

画像出典:Wikimedia Commons

日本で最初に上演されたオペラは、1903(明治36)年、東京音楽学校歌劇研究会による「オルフェウス」である。主演は柴田環、後に世界的プリマ・ドンナとなる三浦環である。
1911(明治44)年には帝国劇場が歌劇部を創設し、「熊野」「釈迦」などを上演。また、帝劇は1913(大正2)年にイタリアからローシー(Giovanni Vittorio Rosi)を招き、部員の養成に努めた。興行の不振により歌劇部が解散となると、ローシーは帝劇部員を集め、1916(大正5)年、赤坂にローヤル館を旗上げする。
しかしながら、主力メンバーの脱退が相次ぎ、1918(大正7)年にローヤル館は閉館、ローシーは日本を去った。

赤坂ではオペラは根付かなかったが、ローヤル館出身の原信子、清水金太郎、田谷力三等が浅草でオペラを上演、これらは「浅草オペラ」と呼ばれ、大流行となる。
浅草では数多くの歌劇団が旗上げ、合併、解散を繰り返したが、1920(大正9)年に誕生し、金龍館を拠点とした根岸歌劇団はスタッフに伊庭孝、佐々紅華、俳優に田谷力三、清水金太郎・静子夫妻、安藤文子等を配し、本格オペラの上演に取り組むなど、「歌唱レベル的には御粗末」と言われている浅草オペラに中にあっては質的にも高いものであった。

「ペラゴロ」(オペラごろつき)なる熱狂的なファンを生んだ浅草オペラであるが、1923(大正12)年の関東大震災によって一瞬にして消滅してしまった。

伊庭孝いば たかし (1887-1937)

1912(明治45)年、上山草人等と近代劇協会を創設し、新劇運動に参加。1917(大正6)年、舞踏家・高木徳子と歌劇協会を結成。1919(大正8)年、新星歌劇団を旗上げし、俳優、演出、脚本、翻訳、経営と多方面で活躍、浅草オペラの隆盛に多大な役割を果たす。
その後も、オペラ運動や音楽評論で活躍。また、音楽理論の発展にも貢献した。

石井漠いしい ばく (1886-1962)

1911(明治44)年、帝劇歌劇部の第一期生となり「熊野」で初舞台を踏む。
歌劇部の指導者ローシーと喧嘩して帝劇を飛び出すと、山田耕筰、小山内薫等と舞踏研究会を作り「日記の一頁」「ものがたり」などを上演。
舞踏研究会解散後、沢モリノ等と共に東京歌劇座を結成。東京歌劇座脱退後も日本館でオペラ座を名乗り、舞台監督として活躍。
しかし、その宗教的色彩の濃い舞台は浅草向きではなかった。1922(大正11)年から1925(大正14)年にかけて義妹・石井小浪とヨーロッパ各国やアメリカでの海外公演を行う。1928(昭和3)年には自由ヶ丘に石井漠舞踏研究所を設立し、石井栄子、石井郁子、石井みどり等を育てた。
戦後も「さまよえる群像」「人間釈迦」などを上演、日本の舞踏界に多大な功績を残した。

高木徳子 (1891-1919)

15歳のとき、宝石商の息子・高木陳平と結婚し、渡米する。アメリカでは芸人一座に加わり、手品や日本舞踊を演じる。
その後、本格的にバレエを学び、1914(大正3)年、ロンドンで舞踏家として舞台に立ち、同年帰国。1915(大正4)年、帝国劇場にデビューし、舞踏家として注目を集める。
1917(大正6)年、伊庭孝作「女軍出征」で浅草・常盤座に出演、大成功を収める。1918(大正7)年には有楽座で「沈鐘」「カルメン」に主演。
同年、夫・陳平との離婚が成立し、永井徳子に改名。
1919(大正8)年、九州巡業中に心臓マヒで急死。

原信子 (1893-1979)

10歳のときに三浦環に師事。東京音楽学校ピアノ科を中退後、三浦環が中心となった帝劇オペラに参加。「カヴァレリア・ルスティカーナ」「魔笛」などにプリマドンナとして出演。
1916(大正5)年、ローシー主宰の赤坂ローヤル館に移籍、「アルカンタラの医者」などのオペレッタを歌う。ローヤル館脱退後、原信子歌劇団を作り、浅草でオペレッタの興行を行う。
当時としては歌唱レベル、給料のいずれにおいても群を抜いていた。1919(大正8)年に引退し、アメリカへ渡る。
その後、イタリアへ行き、日本人として初めてミラノ・スカラ座の専属となる。帰国後は藤原歌劇団で「トスカ」「蝶々夫人」などを歌って活躍。

清水金太郎 (1889-1932)

東京音楽学校卒業後、帝国劇場歌劇部に参加、1912(明治45)年の「熊野」が初舞台となる。
ローシーが帝劇を去り、赤坂ローヤル館を旗上げすると、これに参加。バリトンのスター歌手として活躍。1918(大正7)年、ローヤル館を脱退し、浅草日本館に移籍、「天国と地獄」などに出演。翌年には田谷力三や妻の清水静子等と共に七声歌劇団を結成、金龍館での「アルカンタラの医者」「ボッカチオ」などに出演する。
関東大震災後も、1925(大正14)年に建造された浅草オペラ館に出演するなど、オペラやオペレッタの舞台に時折顔を見せた。
後に浅草の喜劇王となる「シミキン」こと清水金一は弟子である。

河合澄子かわい すみこ (1893-?)

有楽座の女優となり、その後、高木徳子に弟子入りする。1917(大正6)年、日本館の旗上げに参加。歌の素養がないためその歌唱には難があったが、挑発的なスタイルとダンスで人気を博し、後援会が結成された。その後援会の中心メンバーに中学生が多くいたため警察沙汰になると、舞台での挑発的な演技が新聞・雑誌の批判の対象となり、日本館を退座する。
その後、桃色座を経て横浜朝日座でオペラ公演を続けた。

安藤文子 (1896-?)

東京音楽学校の声楽科を卒業。在学中から帝劇歌劇部に教師として招かれる。赤坂ローヤル館ではプリマ・ドンナとして活躍。
その後、浅草では東京歌劇座に参加。1919(大正8)年には清水夫妻、田谷力三等とともに金龍館で七声歌劇団を結成。同年、戸山英二郎(後の藤原義江)とともに新星歌劇団に参加。戸山とはこの頃結婚するが、1920(大正9)年に戸山は単身ヨーロッパに渡ってしまう。声量はないが柔らかい歌声で、本格オペラに取り組み始めた根岸歌劇団の金龍館オペラでは、「カルメン」のミカエラ役を歌うなど、ソプラノのスターとして活躍した。

沢モリノ (1890-1933)

サンフランシスコの生まれと言われている。帝劇歌劇部の第一期生となり、沢美千代を名乗る。その熱心さがローシーに気に入られ、モリノの名をもらう。
1917(大正6)年、石井漠らと東京歌劇座を結成し、日本館で活躍。河合澄子と男性ファンの人気を二分した。歌よりも舞踏の方に才能があり、その後は石井漠のオペラ座で舞踏に力を入れる。

原せい子 (1895-1977)

東京音楽学校のピアノ科を中退し、1914(大正3)年、帝劇歌劇部の一期生となる。1918(大正7)年、高田雅夫と結婚。浅草では新星歌劇団や根岸歌劇団の舞台で活躍。
1922(大正11)年、高田雅夫と共にアメリカやヨーロッパで舞踊を学び、1924(大正13)年に帰国。高田舞踊研究所を設立し、創作舞踊や舞踊家の育成に尽力した。
戦後は山田五郎と共に高田・山田舞踊団を結成し、「湖底の夢」「海のパラード」などを創作・上演。

井上起久子 (1892-?)

東京音楽学校を卒業後、小学校の唱歌の先生となる。帝劇歌劇部の一期生となり、原信子に師事。帝劇、赤坂ローヤル館の舞台を踏む。ローヤル館閉館後、原信子歌劇団に参加。
アルトの歌声は音程も確か、しかも芸達者で舞台では老け役を得意とし、金龍館オペラでも中心的存在として活躍する。1921(大正10)年、金龍館を退座し、伊庭孝等とともに生駒山でのオペラ上演を目指し、生駒歌劇団を結成するが、一年余りで解散。その後も堀田金星とともに楽劇座を結成し、公演を行った。

中山歌子 (1893-?)

1911(明治44)年、帝劇歌劇部の第一期生となる。同歌劇部在籍中から常盤座、本郷座、日本館など方々の劇場の舞台に立つ。
歌声はソプラノで声量もあったが、歌手よりも役者の道を選び、1919(大正8)年には自殺した松井須磨子の代わりに新芸術座の「カルメン」に主演。1920(大正9)年には日活から映画デビュー、「金色夜叉」「生さぬ仲」などに主演した。

高田雅夫 (1895-1929)

帝劇歌劇部の二期生。歌劇部解散後、1918(大正7)年、原せい子と結婚。新星歌劇団や根岸歌劇団で活躍。
1922(大正11)年、妻と共にアメリカに渡り、その後もヨーロッパ各地をまわる。
1924(大正13)年に帰国し、高田舞踊研究所を設立し、「獄囚」「幻想のインド」などを創作。

清水静子 (1896-1973)

帝劇歌劇部の二期生。夫はバリトンの清水金太郎。
1913(大正2)年、ソプラノ歌手として春日桂の芸名で帝国劇場「天国と地獄」でデビュー。
帝劇歌劇部解散後、ローシーの赤坂ローヤル館に参加。1918(大正7)年、夫と共にローヤル館を脱退、浅草日本館に移籍。翌1919(大正8)年には、夫・清水金太郎や田谷力三、安藤文子等と共に七声歌劇団を結成、金龍館で数々のオペレッタ作品に出演。
愛嬌のある舞台姿で人気を得たが、次第に歌の方も実力をつけていき、浅草オペラの全盛期には「椿姫」「カルメン」などの名作オペラにも主演。

天野喜久代 (1896-1945)

帝劇歌劇部の二期生。帝劇解散後、一時期川上貞奴と行動をともにしていたが、浅草でオペラが始ると日本館・東京歌劇座に参加。柔らかいソプラノの歌声と安定した歌唱で「カフェーの夜」のおてくさん役は特に評判が良かった。
その後、オペラの舞台から退き、音楽の勉強をしながら時折歌劇団の蔭唄いなどもやっていた。
昭和に入り、浅草電気館レビューに参加。1928(昭和3)年には、二村定一とのデュエットで「あお空」「アラビアの唄」などのジャズソングを吹き込み、レコード歌手としても活躍。

杉寛すぎ かん (1889-1974)

帝劇歌劇部の三期生。1917(大正6)年の日本館・東京歌劇座の旗上げ公演に参加。三枚目役を器用にこなし、「カフェーの夜」の木座野役、「女軍出征」の日本士官役などは好評であった。
1918(大正7)年には河合澄子に誘われ横浜朝日座に移籍。その後、古川緑波一座や映画に脇役として出演する。

木村時子 (1896-1962)

帝劇歌劇部の三期生。1915(大正4)年の歌劇「ボッカチオ」で初舞台を踏む。その後、ローヤル館、芸術座、日本館、観音劇場、駒形劇場等を転々とする。
歌声はソプラノで、舞台姿も華やかで、明るく歯切れのよい芝居が持ち味であった。1917(大正6)年頃からは金龍館の根岸歌劇団で活躍。浅草オペラの衰退後は電気館レビュー、プペダンサントなど、浅草の軽演劇で活躍。戦後は声優としてラジオにも出演した。

堀田金星ほった きんぼし (1896-1968)

1916(大正5)年、赤坂ローヤル館でコーラス・ボーイとしてデビュー。
浅草では、原信子歌劇団、根岸歌劇団で活躍。伊庭孝作、竹内平吉作曲による「釈迦」ではタイトルロールを歌う。
その後、生駒歌劇団、五彩会、楽劇座などを経て、1929(昭和4)年、新国劇に入り、秋月正夫の芸名で役者として活躍する。

田谷力三たや りきぞう (1899-1988)

1917(大正6)年、ローシー主宰の歌劇団、赤坂ローヤル館に入団し、テノール歌手としてデビュー。
ローヤル館閉館後は浅草に移り、原信子歌劇団や根岸歌劇団で活躍。「ボッカチオ」「天国と地獄」などのオペレッタから、「カヴァレリア・ルスティカーナ」「リゴレット」などのオペラ作品を演じる。オペラ草創期の日本にはテノール歌手がいなかったため、日本で最初の本格派テノールとして、浅草では絶大な人気を誇った。
鈴の音のように美しい頭声で響かせる高音は絶品。1931(昭和6)年には、トーキー映画「巴里の屋根の下」の主題歌も歌う。
その後も、「恋はやさしい野辺の花よ」「海賊ディアボロの唄」など浅草オペラを歌い続け、89歳で亡くなるまでその歌声は衰えを知らなかった。

おすすめCD

恋はやさしい野辺の花よ(大月書店、CD制作キングレコード)

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大月書店出版のCDブック。田谷力三の人生と浅草オペラ盛衰の歴史が書かれている。CDには「恋はやさしい野辺の花よ」「ディアボロの唄」「波をけり」など田谷力三お得意のオペレッタの他、エノケンや若き日の五十嵐喜芳の歌声も収録されている。

藤村悟朗 (1898-1955)

赤坂ローヤル館の出身。音程はやや不安定だが、持ち前の声量で旭歌劇団ではバリトンの花形歌手として活躍する。
その後も七声歌劇団、根岸歌劇団などに所属。震災後も復活した森歌劇団、大合同歌劇団などの舞台で歌う。
1955(昭和30)年、酒に酔って都電にひかれて死去。

大津賀八郎おおつが はちろう (1895-?)

旭歌劇団、七星歌劇団、根岸歌劇団の舞台で活躍。1921(大正10)年頃には広島で青鳥歌劇団を結成。
震災後はミカゲ歌劇団、歌劇協会などで舞台に出演。テノール歌手ではあったが、高音域は響きも悪い。ハイ・バリトンが本来の音域であろう。

町田金嶺まちだ きんれい (1900-1982)

赤坂ローヤル館の出身。ローヤル館閉館後は、原信子歌劇団に入り、観音劇場の舞台に立つ。
その後は旭歌劇団、駒形劇場、根岸歌劇団等で活躍。テノール歌手として、関東大震災後も歌劇協会、大合同歌劇団でオペラの舞台に出演。

柳田貞一やなぎだ ていいち (1895-1947)

三越音楽隊の出身。浅草オペラ全盛時代には根岸歌劇団でバリトン歌手として活躍、「蝶々夫人」のシャープレス役などを歌う。
関東大震災後も五彩会を結成し、浅草オペラの復興を目指すが、昭和に入ってからは、弟子のエノケン主催のプペ・ダンサント、ピエル・ブリアントなど、軽演劇の世界へ活躍の場を移す。

@伊藤家の書斎

 

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