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戦前の3大歌手

東海林太郎
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画像出典:Wikimedia Commons

戦前の3大ヒット歌手とは誰なのかご存知だろうか?
1938(昭和13)年、映画の幕間に挟まれる人気歌手のステージ、すなわち映画館でのアトラクションで1本立てといって1人でも務まるのは3人しかいなかった。

東海林太郎

人気筆頭は東海林太郎しょうじたろうである。

♪泣くなよしよし、ねんねしな

「赤城の子守唄」の東海林太郎。
燕尾服で直立不動で歌うさまは1970年代ごろまで、テレビの物真似番組などでもよく真似された。それより以前には学校で音楽の授業の時、先生に「東海林太郎さんのように姿勢を正して、口をはっきり開けて歌いなさい」などと指導された人もいるかと思う。

然るに東海林太郎、そのヒット曲は「国境の町」や「麦と兵隊」などを除いては日本調というか、いま聞くと古めかしく聞こえる歌が多いせいか、若年層には馴染みが薄い歌手になってしまっている。「旅笠道中」「むらさき小唄」「野崎小唄」「お駒恋姿」「お夏清十郎」「すみだ川」「名月赤城山」とざっと有名な曲を並べてみて、タイトルだけで容易に想像がつくかと思う。

「お夏清十郎」などといって何だかわかる人は今どき東大生にも殆どいないはず。
しかしこのタイトルに芝居の粗筋がぱーっと頭に浮かぶのは戦前ならば、文盲の農家の老婆でも容易であった。「赤城の子守唄」だってさながら新国劇だし、こうした芝居の演目を素養として知らない現代において、東海林太郎の持ち歌がこんなのばかりというのは甚だ不利ではある。

伴奏に三味線が入っていたりと今となっては古めかしく聞こえるこれらの曲でも、当時は若者の聞く歌だった。戦前の流行歌の扱いというのがそうだったのである。
明治、大正の昔になるとレコード歌謡曲というものがなかった訳で、戦前の老人が好んで聞いていたのは流行歌よりも浪曲であったから、東海林太郎の歌とて当時は十分に新しく聞こえ、年寄りの聞くものではなかったという伝である。

戦前いかに人気があったかは、上原敏や霧島昇が東海林太郎の二番煎じと陰口を叩かれていた事からもわかる。

戦後は股旅ものを嫌うGHQの意向もあり、さらには所属していたレコード会社の関係もあってヒット曲に恵まれなくなった。
東海林太郎のレコードで戦後、10万枚以上さばけたのは「さらば赤城よ」ぐらいである。
何度も大病をして健康不安も付きまとった。それでも一応、1950年代後半まで、コンスタントに新曲を出す現役のレコード歌手だったのだが、稼ぎの主力は地方公演。

1960年代からはテレビでの懐メロブームにのってお茶の間にも登場、1972(昭和47、73歳)年に死去した際には佐藤首相から中学生まで葬式にやって来たというから、ヒット曲は出なくても人気は健在であった事がわかる。中学生や高校生がファンクラブにいたというのは、あのステージでの独特の歌い方がネタになっていたという事だろう。

小唄勝太郎

続いてはいま聞くと意外な名前が入る。
この人が戦前、爆発的な人気を誇っていた事は忘れ去られてしまったらしく、ネット上での戦前流行歌の記述でもその事に触れる人はまるでいない。小唄勝太郎こうたかつたろうである 。戦前の女流歌手で人気ナンバーワンは小唄勝太郎だった。

1日に15分の映画館のアトラクションのステージ3回で、交通費と宿泊費は別途支払いでギャラ300円。これは女流歌手では小唄勝太郎だけに許された待遇である。ギャラだけを見ると当時の渡辺はま子の2倍。戦前は超エリートであった大卒者の初任給70円の時代、小唄勝太郎はわずか45分足らずでその4倍以上を稼いでいた事になる。

なお映画館のアトラクションではなくて、地方劇場でのステージは小唄勝太郎はギャラ800円という当時の歌手の中では破格の扱いだったという。また小唄勝太郎の歌ならどんなつまらない歌でも必ず買うファンが全国に1万人おり、20万枚レコードが出れば社会現象と言われた戦前において、出せば間違いなく最低1万枚レコードがはけるなどという歌手は小唄勝太郎以外に存在しなかった。

小唄勝太郎、いまはほぼ絶滅した芸者歌手である。
その持ち歌もいまとなっては最前の東海林太郎のそれよりもさらに古めかしく聞こえる。そのヒット曲「島の娘」は、島で暮らす若い娘の恋人の漁師が海で死んでしまったという歌詞から、「漁師のなり手がなくなる」と千葉方面の漁協から猛抗議が来て、それがまた新聞で話題になるといったほどだった。

古めかしく聞こえると書いたが、戦前の大ヒット曲「島の娘」は現在、ある程度の世代以下の人にはほとんど知られていない曲となってしまっている。「島の娘」の威力を理解できるのは石原慎太郎ぐらいの世代がいちばん若い。
なぜなら彼が都知事時代に伊豆の大島の振興策に、「島の娘」を新人歌手で吹き込み直してはという提案を真面目な顔でしていたのを見た事があるからだ。この話を聞いた時、恐ろしくアナクロニズムな提案をするものだと思ったが、考え直すに「島の娘」の神通力を戦前世代から伝承されている最後の世代が石原慎太郎の太陽族世代あたりなのだなというのに気づいた。

忘れてはならないのが「東京音頭」である。
小唄勝太郎が戦前最大の人気女流歌手とされたのは「島の娘」とこの曲の社会現象とも言うべき爆発的なヒットがあったからだ。「東京音頭」が世に出たのは1933(昭和8)年、これが売れに売れた。盆踊りで皆がこの歌で狂ったように踊りだしたのである。
一時期流行って、すぐに廃れたパラパラどころの比ではない。盆踊りとパラパラを比較するのは荒唐無稽な気がするかもしれないが、戦前、盆踊りは老人のものではなくて若者も熱中した踊りなので、いまならさしずめTikTokで踊るダンスのようなものである。

余りにヒットしたので「さくら音頭」というものも出したが、これまた小唄勝太郎で売れに売れた。「東京音頭」のヒットは1936(昭和11)年まで続いたというから、これはもう社会現象である。小唄勝太郎の名前は歴史に埋もれてしまった観があるが、歌い手を変えて「東京音頭」は今でも世に知られている。
また、「東京音頭」は東京ヤクルトスワローズやFC東京の応援歌として使われていることでも知られる。

それと盆踊りには、地方によっては性的な匂いもあった。
「祭りの晩に」という戦後流行歌でもよく見られた歌詞やフレーズの意味するところは、夜更けて盆踊りの踊り手の輪から離れて意中の娘と野外で奔放な行為をというような事である。

レイプ事件が多発したのも盆踊りの晩であったというのも当時の警察の常識でもあった。
福島の盆踊りでは「会津磐梯山」の歌が、子供が寝静まる深夜になると「朝寝朝酒朝ボボ大好きで」と歌詞が卑猥なものに変わっていき、元々夜這いが風習としてあった地域では、そのまま夜の濃い闇に紛れてというのがごく自然であったという。

「会津磐梯山」というタイトルは1934(昭和9)年に小唄勝太郎がレコード発売した際につけられたタイトルで、ここから全国的に広まった歌だが、元々は会津地方でオールナイトの盆踊りで歌われた「かんしょ踊り」という無名の歌だった。「かんしょ」とは「一心不乱、無我夢中になる様」という意味で、男も女もこの晩は 一心不乱になって…という意味が暗にあったのかどうか。

小唄勝太郎は1974(昭和49、69歳)年に没したが、戦後は新曲をコンスタントに出すような第一線の歌手というイメージではなかった。医者と結婚して家庭に入っていた事もあり、もっぱら懐メロ番組に顔を出すぐらいであったので、自然、戦前の人気ぶりは下の世代には継承されないままであった。

なお小唄勝太郎そっくりな歌手が「サザエさん」の4コマに登場する。
フネが懐メロ番組を見るコマ立てで、淡谷のり子そっくりな歌手も登場するから、長谷川町子はフネぐらいの年代の人が好む歌手として小唄勝太郎と淡谷のり子を思い浮かべたのだろう。

フネは長谷川町子より上の世代、1901(明治28)年1月11日生まれだから、小唄勝太郎のファン層というのがどんなものかはこの辺から浮かび上がる。小唄勝太郎が現在、東海林太郎や藤山一郎と比べて知名度が落ちるのも、戦前のファン層の殆どがいまや鬼籍に入ってしまったためではないか。

藤山一郎

3番目は藤山一郎ふじやまいちろうである。
この人は戦後、レコード会社との契約を解除してNHKの嘱託となった事から、1993(平成5、82歳)年に没するまでテレビの歌番組に出続け、東海林太郎や小唄勝太郎を押しのけて戦前最大のヒット歌手という事になってしまった。
3人の中でいちばん長生きで処世がうまかったのである。戦後に「長崎の鐘」「青い山脈」といったヒット曲を出していた事も武器になった。

戦前の藤山一郎は都市部では人気があったが、地方ではどうだったろうといった歌手であった。そのヒット曲を聴けばわかる。日本調でもないし、泥臭くないのである。この時代の流行歌を知らない人に説明すれば、さしずめロシア民謡のような旋律のフォックストロット調の歌が多い。
時代がくだって流行歌をリアルタイムで知る人が少なくなっても、藤山一郎の歌は受け入れられる素地があったという事だろう。

「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」で戦前は一世を風靡。「東京ラプソディ」も大ヒットしている。いずれも作曲家の古賀政男とのタッグの産物である。

戦前、流行歌のレコードの最大の供給先はどこかというと、女給(ホステス)さんがサービスするカフェーや大人の夜の酒場であった。いまならさしずめ有線代わりに使われていたのである。こういう酒場はレコードをかけっぱなしなので磨り減るのも早く、1軒で同じレコードを何枚も購入した。

一般の家庭で流行歌のレコードを毎月のように買う人など滅多にいなかったらしい。
昔のレコードは場所を取るし、そしてとにかく高いのだ。1938(昭和13)年ならレコード1円65銭、これでラーメンが16杯食えたというから、現在の価格に直すとおよそレコード1枚1万円見当である。さらに戦前のレコードは割れやすいから、うっかり落として割ったりしたら目も当てられない。(シェラックという天然樹脂で固めた混合物が主原料)

子供が流行歌を歌って怒られたというのは、この手の流行歌は妖しいネオンきらめく大人の夜の社交場のBGMだったからである。
本来は「東京ラプソディ」だって、紫煙たなびく夜の酒場でお姐ちゃんを口説く、にやけた男のバックにBGMとしてかかっているような歌であった。いま聞くから学校で習う歌のように聞こえるのであって、「恋の踊り子の踊り子のほくろさえ忘られぬ」なんて当時は何やらなまめく淫靡な香りがそこはかとなく漂っていたに違いない。

藤山一郎は驚くべき事に晩年まで声が衰えなかった。20代の頃と何ら変わらなかったのである。リアルタイムで見ていて藤山一郎の声の衰えを意識したのは、1992(平成4)年の国民栄誉賞受賞の少し前である。

藤山一郎が国民栄誉賞を受賞したのはある番組がきっかけだった。
1991(平成3)年暮れに収録され1992(平成4)年に放映されたNHKテレビ「幾多の丘を越えて」で、藤山の半生を振り返りながらスタジオで歌を次々に披露したのだ。
同様の番組は少し前に田端義夫でやったのだが、田端はステージで歌を披露した。藤山は年も年だったからかステージではなくスタジオで歌を披露したのであった。この番組を自民党の国会議員が多数観ていた。そして藤山一郎が巣鴨の戦犯慰問をしたというくだりに、確か当時の自民党の長老議員らがいたく感激して、時の宮沢総理を動かしたと記憶している。

当時存命だった戦前からの大物歌手には淡谷のり子もいたが、淡谷は共産党の選挙ビラに推薦文を書いたり、赤旗まつりに出演したりしていた経歴で国民栄誉賞を刎ねられた筈だ。藤山一郎は保守党支持という訳ではなく、NHK専属だったので党派性を持たない歌手だった事も幸いした。

かくて藤山一郎=戦前最大のヒット歌手伝説は完成した。確かに藤山一郎は戦前の歌手陣の中でギャラの高さを見れば3本の指に入る人気歌手ではあったが、あくまで東海林太郎、小唄勝太郎に次ぐという扱いだった筈である。

「幾多の丘を越えて」では藤山一郎の美声は健在だった。この点も国民栄誉賞に大きく貢献した事は間違いない。だから恐らく藤山一郎がその美声を失ったのは、1992(平成4、81歳)年初頭ぐらいとなる筈である。藤山一郎は1993(平成5、82歳)年に没しているので、その生涯のほとんどを若い頃の美声を保ったままで過ごした事になる。

藤山一郎の処世術のうまさの最大のものは、1954(昭和29)年にNHK専属となった事だろう。
本人いわく、テレビ時代の到来を見越して、もはや戦前からのやり方は通用しなくなる、これからは見せる歌手の時代だ、とNHKからのオファーを承諾したのだという。

NHKでは民放に出演しない決断をした藤山一郎を最大限に厚遇し、以降NHKテレビに出演する芸人はすべて、藤山一郎の審査を受けないといけないという奇怪な決め事まで出来てしまった。
漫才師のビートたけしがNHK出演の許可をもらうために、藤山一郎の前で事前審査として歌を歌ったのは有名な話である。藤山一郎がOKサインを出さないと、芸人のNHK出演が出来ないという時代が確かにあった。
この得体の知れぬ決め事が戦後の芸能界でいかに藤山一郎の権威を高めたか知れない。そしてさらにわけのわからない事に、漫才師でも審査の科目は歌であった。なぜなら審査員の藤山一郎は現役歌手だったからである。





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