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昭和10年代

昭和10年代-藤山一郎

画像出典:Wikimedia Commons

戦前の流行歌手は、主に音楽学校出身者である。
音楽学校で発声の基礎を学んでいるので、歌声はよく通り、かつ、発音の明瞭さに優れている。「歌手の個性=声の個性」という良き時代である。
また、女性が歌を勉強するのは困難な時代であり、天性の美声を持った芸者歌手の全盛時代でもある。

藤山一郎 (1911-1993)

1931(昭和6)年、東京音楽学校在学中に吹き込んだ「キャンプ小唄」「酒は涙か溜め息か」「丘を越えて」などが大ヒット。このアルバイトが学校に知られて、停学処分となる。
音楽学校時代に学んだドイツ・リートを基礎にした歌詞の明瞭な明るく瑞々しい歌声で、戦前は古賀政男作曲による「影を慕いて」「東京ラプソディー」「男の純情」、戦後は服部良一作曲による「青い山脈」「丘は花ざかり」、古関裕而作曲による「夢淡き東京」「長崎の鐘」など数多くの曲をヒットさせる。
「歌は作詞、作曲、歌唱の三者の関係が正三角形でなければならない」という持論のもと、楷書的な歌唱で歌い続け、流行歌手の地位を向上させた。1992(平成4)年、国民栄誉賞を受賞。

おすすめCD

懐かしのメロディ 全曲集(コロムビア)
「丘を越えて」「青い山脈」「長崎の鐘」など昭和の三大作曲家、古賀政男、服部良一、古関裕而の作品が収録。藤山一郎のエッセンスがこの一枚に凝縮されている。
藤山一郎 我が青春(ポニーキャニオン)
古賀政男作品の他、「私の青空」など昭和初期の流行歌、国民栄誉賞受賞記念で発売された「赤坂宵待草」「歓喜の歌」収録。「洒落男」をコミカルに歌っているのが面白い。

淡谷のり子 (1907-1999)

音楽学校在学中は「10年に一人のソプラノ」と言われ、クラシック歌手を志すが、生活のために流行歌の世界に入り、1930(昭和5)年、「久慈浜音頭」でデビュー。
1923(昭和12)年、服部良一作曲による「別れのブルース」が戦地で歌われヒットする。
さらに「雨のブルース」「東京ブルース」などがヒットし、ブルースの女王と呼ばれる。戦時下にあっても軍に反発し、「これが私の戦闘服」と言ってドレスを着続けた。
歌唱は共鳴を上手く使った無理のない発声法で、特に高音は安定感がある。

楠木繁夫 (1904-1956)

東京音楽学校を中退し、1930(昭和5)年、秋田登の名前で歌手デビュー。
レコード会社、芸名を何度も変えた後、テイチクで古賀政男と出会い「白い椿の唄」「緑の地平線」「女の階級」などを、持ち前の透明感のある美しい歌声でヒットさせた。
歌手の三原純子と結婚するが、戦後はヒット曲に恵まれず、また、病弱の妻の身を悲観して、1956(昭和31)年、自宅の物置小屋で自殺。

小唄勝太郎 (1904-1974)

1929(昭和4)年、新潟から上京し芸者となる。1930(昭和5)年、オデオンレコードから「佐渡おけさ」でデビュー。ビクターに移籍後、1933(昭和8)年に「島の娘」が大ヒット。
その後も「東京音頭」「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒット。戦時中も「明日はお立ちか」をその哀調ある美声で歌いヒットさせている。

市丸 (1906-1997)

浅間温泉のお座敷芸者から「うぐいす芸者」と呼ばれる。清元、宮園節、小唄など邦楽を身に付け、1931(昭和6)年、歌謡界にデビュー。
1933(昭和8)年、中山晋平作曲「天竜下れば」が大ヒット。戦後は服部良一作曲「三味線ブギ」がヒット。
ブギのメロディーを邦楽的な歌唱法で歌い、独自の世界を切り開く。

赤坂小梅 (1906-1992)

16歳のときに小倉で梅若の名で芸者となる。1929(昭和4)年、ビクターで「小倉節」を吹き込む。
1933(昭和8)年、コロムビアから「ほんとにそうなら」でデビューし、これが大ヒット。
切々とした歌い方で、「そんなお方があったなら」「ゆるしてね」などを続けてヒットさせる。他に「白頭山節」「黒田節」などの民謡も吹き込んでいる。

松島詩子 (1905-1996)

音楽教師から歌手に転身。1932(昭和7)年、コロムビアから柳井はるみの芸名で「ラッキーセブンの唄」でデビュー。
1935(昭和10)年、テイチクで吹き込んだ古賀政男作曲の「夕べ仄かに」がヒット。キングレコード移籍後、1937(昭和12)年に「マロニエの木陰」が大ヒット。クラシック的な正統派の歌唱で、舞台でもオペレッタの公演を行っている。

中野忠晴 (1909-1970)

武蔵野音楽学校卒業後、1932(昭和7)年、コロムビアから「夜霧の港」でデビュー。
1934(昭和9)年、コロムビア・リズム・ボーイズと吹き込んだ「山の人気者」が大ヒット。1935(昭和10)年「小さな喫茶店」、1938(昭和13)年「バンジョーで唄えば」などのジャズ・ソングを、鼻にかかった明るい歌声で歌い、ヒットさせる。
戦後は作曲家として、若原一郎の「おーい中村君」、三橋美智也の「赤い夕陽の故郷」「達者でナ」などを作曲する。

松平晃 (1911-1961)

東京音楽学校在学中、アルバイトでレコーディングするが、学校に知られ退学。1933(昭和8)年、コロムビアからデビュー。「ポスト藤山一郎」として期待される。
深みのある甘美な歌声で、「サーカスの唄」「急げ幌馬車」のような哀愁漂う曲調から「花言葉の唄」のような叙情歌調の曲までヒットは多い。

東海林太郎 (1898-1972)

満鉄の職員であったが、クラシック歌手への夢を捨て切れず、34歳で歌手に転身。
1934(昭和9)年、「赤城の子守唄」が大ヒット。その後も、「国境の町」「旅笠道中」「むらさき小唄」「野崎小唄」などをヒットさせ、日本調の歌では他の追随を許さなかった。戦時歌謡では「麦と兵隊」などが有名。
ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは、テレビ時代になっても変えなかった。口を大きく開け、全身で発声する歌声には独特の哀調がある。

ディック・ミネ (1908-1991)

大学時代にジャズバンドを結成。1934(昭和9)年、「ダイナ」「黒い瞳」などをヒットさせ、ジャズ歌手として認められる。
その後、「人生の並木路」「旅姿三人男」などの日本調から「或る雨の午后」などのタンゴ調まで多くの歌をヒットさせる。
深みのあるバスの歌声で、戦後も、1947(昭和22)年の「夜霧のブルース」「長崎エレジー」などのヒット曲がある。

渡辺はま子 (1910-1999)

武蔵野音楽学校卒業後、1933(昭和8)年、ポリドールからでデビュー。1936(昭和11)年、「忘れちゃいやヨ」が大ヒット。
しかし、厳格な家に育った渡辺が苦心の末に吹き込んだ甘い歌い方が、「婦女の嬌態を眼前に見る如き官能的歌唱」と発売禁止になる。
その後、「支那の夜」「蘇州夜曲」「何日君再来」などの大陸物をヒットさせる。正統派の力強いソプラノの歌声は、歌謡界にあっては異彩を放った。

松原操(ミス・コロムビア) (1911-1984)

東京音楽学校を卒業後、1933(昭和8)年、コロムビアから覆面歌手ミス・コロムビアの名で「浮草の唄」でデビュー。同年「十九の春」、1934(昭和9)年「並木の雨」とヒットを続ける。
1938(昭和13)年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を霧島昇とのデュエットで吹き込む。翌1939(昭和14)年、霧島昇と結婚。
癖のない正統的な歌唱と澄んだ歌声で、戦後も霧島昇とのデュエットで「目ン無い千鳥」「三百六十五夜」をヒットさせる。

林伊佐緒 (1912-1995)

明大在学中に国立音楽院ピアノ科で学ぶ。1934(昭和9)年、日東レコードから歌手としてデビュー。
1939(昭和14)年には、陸軍省と講談社が詞と曲を募集した「出征兵士を送る歌」で作曲家としてもデビュー。
歌手としての初ヒットは、新橋みどりとのデュエットで歌った「若しも月給が上がったら」。力強い正攻法の歌唱で、戦後は「ダンスパーティーの夜」「真室川ブギ」「高原の宿」などを自らの作曲でヒットさせる。
また、三橋美智也の「リンゴ村から」、春日八郎の「長崎の女」など作曲家としてもヒット曲を出し、歌手と作曲家の二足の草鞋で活躍。

豆千代 (1912-2004)

作曲家・江口夜詩に認められ、1934(昭和9)年、コロムビアからデビュー。
1936(昭和11)年、松平晃とのデュエットで歌った「夕日は落ちて」が大ヒット。美人芸者歌手として活躍する。
他にヒット曲は「朝霧夜霧」「月に浮かれて」などがある。

美ち奴みちやっこ (1917-1997)

1934(昭和9)年、キングレコードから「桜ばやし」でレコード・デビュー。
テイチク移籍後の1936(昭和11)年、杉狂児とのデュエットによる同名の映画主題歌「うちの女房にゃ髭がある」がヒット。また、ソロで歌ったこの映画のもう一つの主題歌「あゝそれなのに」もヒットさせる。
金属的な響きをもった独特の歌声で、他に「軍国の母」「吉良の仁吉」などのヒットがある。

小野巡 (1910-2009)

東京淀橋署に勤務する警察官であったが、銭湯で歌っているところを作曲家・細田義勝にスカウトされる。
1935(昭和10)年、ビクターから「祖国の護り」でデビュー。芸名の「めぐる」は「巡査」から一字とってつけたものである。
1936(昭和11)年、「守護兵ぶし」がヒット。テイチク移籍後、1938(昭和13)年「涯なき泥濘」「音信はないか」を吹き込む。
独学ならではの軽い歌い回しと甘い歌声で戦時歌謡を歌い、人気を博した。

上原敏うえはら びん (1908-1944)

専修大在学中は、野球部でエースピッチャーとして活躍。また、声楽をテノール歌手の大和田愛羅に学ぶ。
1936(昭和11)年、ポリドールから歌手デビュー。翌1937(昭和12)年、「妻恋道中」「流転」「上海だより」がヒット。
鼻にかかった甘い歌声、軽く語りかけるような歌唱法で、日本調の歌では東海林太郎に迫る活躍ぶり。
南方派遣軍に召集され、1944(昭和19)年、ニューギニアで戦病死。遺骨は未だ祖国に帰っていない。

塩まさる (1908-2003)

鉄道省に入り、千葉鉄道管理局に勤務するかたわら、音楽サークルを作り、全国の駅を歌って回る。
1937(昭和12)年、キングレコードのテストに合格し、同年「軍国子守唄」がヒット。戦時下の1939(昭和14)年には、戦死した息子を思う母の心を唄った「九段の母」をヒットさせる。
豊かな低音の歌声とパンチの効いた歌唱は90歳を越えても健在であった。現役最長老歌手として、「昭和の万葉集」と称しながら、亡くなった歌手仲間のヒット曲を歌い続けた。

伊藤久男 (1910-1983)

帝国音楽学校でピアノを学ぶ。1933(昭和8)年、コロンビアの専属歌手となる。
初めはヒットに恵まれなかったが、1940(昭和15)年、「高原の旅愁」がヒット。戦時体制下では、「暁に祈る」「熱砂の誓い」など軍事歌謡のヒットも多い。
持ち前の声量で、「イヨマンテの夜」などを豪快に歌い上げ、大ヒットさせる一方で、「あざみの歌」「山のけむり」といった叙情歌調でも哀愁漂う味わい深い歌唱を見せる。

灰田勝彦 (1911-1982)

ハワイ・ホノルル生まれ。立教大学在学中に兄・晴彦が作ったバンドの専属歌手となる。
1936(昭和11)年、ビクターから「ハワイのセレナーデ」でデビュー。1940(昭和15)年、「燦めく星座」が大ヒット。甘いマスクで女性に人気があり、ブロマイドの売上では、俳優・上原謙、長谷川一夫等を押さえてトップであった。
甘い美声と若々しさで、戦時中は「森の小径」「新雪」「鈴懸の径」、戦後は「東京の屋根の下」「アルプスの牧場」などの青春歌謡を数多くヒットさせている。

霧島昇 (1914-1984)

東洋音楽学校卒業後、浅草のレビュー小屋などで歌う。1936(昭和11)年、エヂソンレコードにスカウトされデビュー。
コロムビア移籍後、ミス・コロムビア(松原操)とのデュエットで歌った、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が大ヒット。後に妻となる松原操とのコンビでは他に「一杯のコーヒーから」「三百六十五夜」などのヒットがある。
甘く切ない歌声と真摯な歌唱態度で「誰か故郷を想わざる」「胸の振子」などヒットさせ、戦前・戦後の歌謡界を支えた。

二葉あき子 (1915-2011)

東京音楽学校卒業後、1936(昭和11)年、コロムビアの専属歌手となる。
1939(昭和14)年、松竹大船映画「春雷」の主題歌「古き花園」が大ヒット。戦時中は、「なつかしの歌声」「春よいずこ」「新妻鏡」など藤山一郎、霧島昇等とのデュエットで数多くのヒット飛ばす。
戦前はかなり音域が高く、ソプラノに近い歌声であったが、戦後は音域が低くなり、本格派アルト歌手として活躍。
「夜のプラットホーム」「フランチェスカの鐘」「恋の曼珠沙華」「さようならルンバ」などブルースからルンバまで様々なリズムを歌いこなし実力を見せる。
晩年も懐メロ番組などに登場し、元気な歌声を披露していたが、2003(平成15)年に現役引退を表明した。

由利あけみ (1913-)

東京音楽学校を卒業。女学校の教師をしていたが歌手に転向し、1936(昭和11)年「夜のセレナーデ」でデビュー。
ビクター移籍後の1939(昭和14)年、熱海の温泉PRのために限定発売した「熱海ブルース」がヒット、続いて発売した「長崎物語」もヒットした。
声楽で鍛えたアルトの歌声をセーブし、やや気だるい感じで歌う歌唱には独特の情緒がある。
1939(昭和14)年には、ビゼー歌劇「カルメン」の主役でオペラ・デビューも果たす。

藤原亮子 (1917-1974)

東洋音楽学校在学中からソプラノ歌手・原信子に師事、オペラに出演する。
1937(昭和12)年、ビクターから「泣いて居る」でデビュー。温かみのあるアルトの歌声は聴く者に安心感を与える。
歌唱がオーソドックスであったせいか、ソロによるヒット曲があまりないが、小畑実との「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」や竹山逸郎との「誰か夢なき」「月よりの使者」など男性歌手とのデュエットで数多くのヒットを出している。

鶴田六郎 (1916-1997)

日本大学在学中、歌っているところを作曲家・細田義勝にスカウトされる。
1938(昭和13)年、ビクターから「晴れの土俵」でデビュー。続いて出した細田の作曲による「カタカナ忠義」がヒット。テイチク移籍後、1940(昭和15)年には「誉れの馬車」を吹き込む。
また、戦後はコロムビアに移籍し、「港の恋唄」などをヒットさせた。ラフなスタイルと軽妙な歌い口で人気を得た。

三原純子 (1920-1958)

作曲家の長谷川堅二に師事し、1939(昭和14)年に「帰らう帰らう漢口へ」でタイヘイ(太平蓄音器)からデビュー。
コロムビアに移籍後、1942(昭和17)年「南から南から」を明るく爽やかに歌い大ヒット。
戦後はあまりヒット曲に恵まれず、さらには胸の病気を患い故郷の岐阜で療養生活に入る。1956(昭和31)年には夫・楠木繁夫が自殺、その2年後の1958(昭和33)年に亡くなった。

小笠原美都子 (1920-)

1940(昭和15)年、テイチクからデビュー。翌1941(昭和16)年、東海林太郎とのデュエットによる「琵琶湖哀歌」がヒット。続いて吹き込んだ「十三夜」は発売当時あまりヒットしなかったが、戦後になって「のど自慢」などで良く歌われるようになった。
清らかな歌声と繊細な表現に秀でた歌唱で、他に東海林太郎と歌った「九段のさくら」などのヒットがある。
1980(昭和55)年には日朝音楽芸術交流会会長に就任。1982(昭和57)年、北朝鮮での国際音楽祭に出席するなど、日本と北朝鮮との音楽交流に尽力している。

@伊藤家の書斎

 




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