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レコード草創期

レコード草創期

大正期までの流行歌の主な伝播役は大衆の面前で唄う演歌師であった。
しかし、1928(昭和3)年、日本ビクターと日本コロムビアの2大レコード会社の創立によって、日本の流行歌はレコード時代を迎える。これにより、街頭から演歌師の姿は消えていった。
レコード草創期に歌を吹き込んだのは、大正期の浅草オペラなどの舞台で活躍していた歌手、声楽家などである。当然、その歌唱法は声の響きに重点を置いた声楽的なものが多かったが、奥田良三や四家文子よつや ふみこなど発音や詩の意味にも気を配る声楽家や、二村定一ふたむら ていいちのようにポピュラーソングの歌詞をはっきりと唄う歌手も現れ、後の流行歌の歌唱法に影響を与えている。

藤原義江 (1898-1976)

1917(大正6)年、沢田正二郎率いる新国劇に入り、戸山英二郎の芸名で舞台を踏む。
その後、浅草オペラに身を投じるが、大スター田谷力三の人気の前に目立った存在には成れず、1920(大正9)年ヨーロッパに渡る。
イタリアで声楽を学び、翌1921(大正10)年、ロンドンでリサイタルを開き、「荒城の月」などの日本歌曲が好評となる。1928(昭和3)年、米国ビクターで録音した「出船の港」「鉾をおさめて」「出船」が赤盤として日本に輸入され、「我等のテナー」と呼ばれる。
帰国後は、日本人離れした声量と「藤原節」と呼ばれた独特の歌唱法で、当時声楽家にはあまり歌われていなかった日本歌曲を歌いまくり、全国的に流行させる。
また、藤原歌劇団を設立し、日本に本格的なオペラを普及させた。

おすすめCD

我等のテナー藤原義江全集(Victor)
日本歌曲、イタリア歌曲、オペラ・アリアなどがCD3枚に収録。何を歌っているのかよく分からないが、凛々しい「藤原節」は存分に堪能できる。
我等のテナー 藤原義江(Victor)
「我等のテナー」愛称のオペラ歌手・声楽家、藤原義江がビクターに残した貴重な2枚組CD音源。1927~49年当時のSP盤からのデジタル化音源。

佐藤千夜子 (1897-1968)

神田錦町の女子音楽学校を中退後、1928(昭和3)年、中山晋平作曲の「波浮の港はぶのみなと」を吹き込み、日本のレコード歌手第一号となる。
1929(昭和4)年には「東京行進曲」「紅屋の娘」「愛して頂戴」など次々とヒットを飛ばす。
しかし、「流行歌手」であることに劣等感を抱き、オペラ歌手を目指してイタリアへ渡るが成功せず、5年後に帰国。後輩女性歌手の台頭により、再びスターの地位につくことはなかった。歌唱は東北なまりがひどく、優れているとは言い難い。

二村定一 (1900-1948)

浅草オペラ出身。1928(昭和3)年、米国のポピュラーソング「私の青空」「アラビアの唄」をヒットさせ有名になる。
歌詞の明瞭な、鼻にかかった独特の歌唱法で、「君恋し」などをヒットさせ、ジャズソングの草分け的存在となる。
その後は、弟分であったエノケンと共に舞台で活躍する。しかし、次第に酒の量が増え、かつての美声を失っていく。戦後、再びエノケンに声をかけられ一座に加わるが、公演中に急死。

藤本二三吉ふじもと ふみきち (1897-1976)

1909(明治42)年、はん子の名で半玉(年少の芸者)として座敷に出る。1915(大正4)年、姉が芸奴置屋を開業したのを機に、日本橋葭町から二三吉の名で出る。
芸奴をしながら、東京レコードから「新磯節」「ストトン節」などを出す。1928(昭和3)年、ビクターの専属歌手となり、小唄・端唄を吹き込む。1929(昭和4)年「三朝小唄」「浪花小唄」、1930(昭和5)年「祇園小唄」「唐人お吉小唄」などをヒットさせる。
芸者歌手の草分け的存在。

奥田良三 (1903-1993)

東京音楽学校中退後、イタリアへ渡り、ローマのサンタ・チェチリア音楽院を卒業。テノール歌手として、ウィーン国際音楽コンクールで銀賞を得る。
声の響きに重点を置くイタリア・ベルカントと歌詞の明瞭なドイツ・リートとを融合させた歌唱法を確立。その透き通るような美しいピアニッシモは多くの聴衆を魅了した。1936(昭和11)年から始まった国民歌謡でも、「夜明けの唄」「出せ一億の底力」などを歌う。
晩年も、シューベルトの歌を録音するなど、終生、向上心を持ち続けた。

おすすめCD

奥田良三 思い出の名唱集(ポリドール)
若き日の透明感あふれる歌声での日本歌曲から晩年のドイツ語でのシューベルト作品集がCD3枚に収録されている。「からたちの花」最後の「1点A音」のピアニッシモは秀逸。

四家文子 (1906-1981)

東京音楽学校卒業後、オペラ歌手として活躍。
その後、流行歌も歌うようになり、松竹映画の主題歌「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」などをヒットさせる。
作詞・作曲家と協力し、日本語のイントネーションを考慮した美しい歌の普及に努めた。

関種子 (1907-1990)

東京音楽学校声楽科を卒業。ネトケ・レーヴェに師事する。1929(昭和4)年、山田耕筰作曲のオペラ「堕ちたる天女」の主役でデビュー。ソプラノ歌手として、「カルメン」のミカエラ役、「ファウスト」のマルガレータ役などを歌う。
流行歌手としても、1931(昭和6)年に吹き込んだ「日本橋から」「窓に凭れて」をはじめ、「嘆きの夜曲」「乙女の春」「雨に咲く花」などヒットも数多い。高音域も無理がない柔らかく美しい歌唱は一流オペラ歌手ならでは。
戦後は藤原歌劇団で「ラ・ボエーム」のミミ役などを歌い、オペラの舞台で活躍。流行歌とオペラの二つの世界で活躍した希有の存在。

小林千代子 (1910-1976)

東洋音楽学校を卒業。松竹少女歌劇団のプリマ・ドンナとして活躍。
1931(昭和6)年、「金色仮面」の芸名でコロムビアからレコードデビュー、女性覆面歌手の第一号となる。芸名を小林千代子とし、1932(昭和7)年「涙の渡り鳥」をヒットさせる。
戦前のヒットとしては、「銃後の花」「人の気も知らないで」などがある。戦後は芸名を小林伸江に代え、小林伸江歌劇団を設立。また、1967(昭和42)年「マダム・バタフライ世界コンクール」を創設するなどクラシックの世界で活躍した。

徳山璉とくやま たまき (1903-1942)

東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となるが、歌手に転向。ビクターの専属歌手となり、流行歌とセミクラシックの両方で活躍。
1931(昭和6)年「侍ニッポン」が、続いて吹き込んだコミックソング「ルンペン節」がヒット。戦時中は、1940(昭和15)年「隣組」、1941(昭和16)年「戦陣訓の歌」「歩くうた」などを歌うが、1942(昭和17)年、37歳で病死。

児玉好雄 (1903-1986)

イタリアに留学し、ミラノ音楽院で学ぶ。オペラを学ぶかたわら、日本の小唄や民謡も研究していた。
1934(昭和9)年、ビクターの専属となり「無情の夢」を吹き込む。クラシック的でありながら、哀愁を漂わせる独特の節回しでヒットさせる。

@伊藤家の書斎

 




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