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昭和20年代

昭和20年代-李香蘭

画像出典:Wikimedia Commons

歌手の歌唱法も多様化し、それは戦後歌謡界の男性歌手・四天王の歌唱に代表される。
明るい朗々とした歌声のオカッパル(岡晴夫)、切々と語りかける歌唱のバタヤン(田端義夫)、正統派で甘い歌声の近江俊郎、ささやくようなクルーン唱法の小畑実である。この中で、岡と田端の歌唱は現代演歌の原形とも言える。
また、戦前にブルースをヒットさせた服部良一がブギのメロディーを作曲し、それらを笠置シヅ子が歌いヒットさせた。
現在の歌謡界の主流とも言えるポップスはここに始まる。

岡晴夫 (1916-1970)

1939(昭和14)年、親友の作曲家上原げんととのコンビでデビュー。「上海の花売り娘」「港シャンソン」をヒットさせる。
鼻にかかった癖のある歌唱法のため、戦時中はヒットに恵まれなかったが、戦後はその明るい朗々とした歌声で、1946(昭和21)年「東京の花売り娘」「啼くな小鳩よ」、1948(昭和23)年「憧れのハワイ航路」と大ヒットを連発。
雑誌「平凡」の人気歌手投票でも、1950(昭和25)年から3年連続して第1位と、空前のオカッパル・ブームとなる。
死後、大阪のオカッパル・ファンを中心に「岡晴夫を偲ぶ会」が生まれた。

おすすめCD

SP復刻版による懐かしのメロディ 岡晴夫/逢いたかったぜ(コロムビア)
オカッパルのヒット曲と言えば「東京の花売娘」「憧れのハワイ航路」などキングレコード時代のものが思い浮かぶが、このCDには昭和30以降、コロムビア時代のヒット曲が収録されている。「逢いたかったぜ」はもちろんのこと「高原の花嫁さん」「君と行くアメリカ航路」など名曲も多い。

近江俊郎 (1918-1992)

武蔵野音楽学校中退後、1936(昭和11)年、タイヘイ(太平蓄音器)からデビュー。
戦前は芸名、レコード会社を次々と変えるがヒット曲に恵まれなかった。1946(昭和21)年、奈良光枝とのデュエットで吹き込んだ「悲しき竹笛」がヒット。その後も「山小舎の灯」「黒いパイプ」「思い出は雲に似て」などラジオ歌謡でヒットを飛ばす。
低音にやや響きがないが、高音は美しいヴィブラートがかかった甘い歌声で、1948(昭和23)年には「湯の町エレジー」が空前の大ヒットとなる。
晩年は、テレビの歌番組のコメンテーターとして有名。

田端義夫 (1919-2013)

1939(昭和14)年、「島の舟唄」でデビュー。戦前は「大利根月夜」「梅と兵隊」などがヒット。
切々と心に訴えかけるような歌唱法で、戦後は「かえり船」「玄海ブルース」「ふるさとの燈台」などをヒットさせる。
その後、しばらく低迷するが、1962(昭和37)年、南の島唄「島育ち」を世に送り出しカムバック。1975(昭和50)年には、「十九の春」がヒット。
2009(平成21)年の元旦に90歳となり、歌手生活70周年記念アルバムをテイチクより発売し、健在であることを示した。
ぼろぼろのギターをかかえた独特のスタイルで、威勢のよい挨拶がトレードマーク。

笠置シヅ子 (1914-1985)

1927(昭和2)年、13歳で大阪松竹歌劇部(OSK)から三笠シヅ子でデビュー。崇仁親王の三笠宮家創立により、芸名を笠置シヅ子に変える。
1947(昭和22)年、服部良一作曲による「東京ブギウギ」を歌い、一躍スター歌手となる。ステージを所狭しと動き回り、ダイナミックな踊りと歌唱で一世を風靡した。
「ジャングルブギ」「ヘイヘイブギ」「買物ブギ」などをヒットさせ「ブギの女王」と呼ばれる。
昭和30年以降は歌手を引退し、女優業やテレビの歌番組のコメンテーターなどの仕事をしていたが、決して歌うことはなかった。

李香蘭り こうらん(山口淑子) (1920-2014)

満州に生まれ、奉天女子商業学校在学中に声楽を学ぶ。1938(昭和13)年、満州映画「蜜月快車」で映画デビュー。
声楽で鍛えたリリカルで美しく澄み渡ったソプラノの歌声と美しい容姿で人気を集めた。
1939(昭和14)年、長谷川一夫と共演し、東宝映画「白欄の歌」「シナの夜」に出演。1940(昭和15)年、映画「熱砂の誓い」に主演し、主題歌「紅い睡蓮」を歌い、ヒットさせる。
戦後は、山口淑子の名でビクターから「夜来香イェライシャン」を出し、大ヒットさせた。その他、渡辺はま子が吹き込んだ「シナの夜」「蘇州夜曲」などの大陸物もレパートリーとなっている。

小畑実 (1923-1979)

日本高等音楽学校に学んだ後、1941(昭和16)年にデビュー。
1942(昭和17)年、藤原亮子とのデュエットで「湯島の白梅」が、翌1943(昭和18)年には「勘太郎月夜唄」がヒット。
朝鮮生まれのため発音にやや難があるものの、ささやきかけるような甘いクルーン唱法で、戦後は「長崎のザボン売り」「薔薇を召しませ」「小判鮫の唄」「星影の小径」と次々ヒットを飛ばし、岡、近江、田端の3大スターに肉迫。1957(昭和32)年に引退するが、1969(昭和44)年再び歌謡界に復帰。
1979(昭和54)年、ゴルフ場で急死。

暁テル子 (1921-1962)

松竹少女歌劇団に入り、1933(昭和8)年、暁照子の名でデビュー。
少女歌劇卒業後は、東宝や松竹の舞台で活躍。1951(昭和26)年、ビクターから「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」を発売。
軽快な曲調と明るい歌声がマッチして大ヒットとなる。

菊池章子 (1924-2002)

1939(昭和14)年、少女歌手としてコロムビアからデビュー。
1943(昭和18)年、映画「湖畔の別れ]の主題歌「湖畔の乙女」がヒット。
テイチク移籍後の1947(昭和22)年、東京日日新聞へのある女性の投稿記事をもとに作られた「星の流れに」を歌い、これが大ヒットとなる。情感を込めた切々とした歌い方で、1951(昭和26)年には「岸壁の母」をヒットさせる。

奈良光枝 (1923-1977)

1940(昭和15)年、コロムビアから「南京花轎子なんきんはなかご」でデビュー。
1943(昭和18)年、藤山一郎とのデュエットで「青い牧場」を歌う。1946(昭和21)年、大映映画「或る夜の接吻」に主演、近江俊郎と歌った映画主題歌「悲しき竹笛」が大ヒット。1949(昭和24)年には「青い山脈」を藤山一郎とのデュエットで、また、1951(昭和26)年にはソロで「赤い靴のタンゴ」をヒットさせる。
当時の流行歌手としては珍しい清純派美人で、甘く美しい歌声で多くのヒット曲を歌った。

並木路子 (1921-2001)

1935(昭和10年、松竹少女歌劇団に入る。1945(昭和20)年、松竹映画「そよかぜ」の主役に抜擢される。その挿入歌として歌った「リンゴの唄」でレコードデビュー。
その明るい歌声は、戦後の沈んだ人々の心に勇気と希望を与えた。その後も「森の水車」「可愛いスイートピー」など明るい曲調の唄を歌う。

津村謙 (1923-1961)

1943(昭和18)年、テイチクからデビュー。
戦後、キングレコードに移籍し、1948(昭和23)年、「流れの旅路」が初ヒット。1952(昭和27)年、「上海帰りのリル」が大ヒットし、スターダムに駆け上がる。
流行歌手では数少ないテノールであり、その透明感のある高音の美声は「ビロードの歌声」と言われた。その後も「待ちましょう」「あなたと共に」などをヒットさせるが、1961(昭和36)年、自宅車庫の車内で、一酸化炭素中毒により事故死。

岡本敦郎おかもと あつお (1924-2012)

武蔵野音楽学校を卒業後、1946(昭和21)年、コロムビアから「朝はどこから」でデビュー。
清潔感に溢れた明るく伸びのある歌声で、1950(昭和25)年、「白い花の咲く頃」、1951(昭和26)年には「リラの花咲く頃」「あこがれの郵便馬車」、1954(昭和29)年には「高原列車は行く」と叙情歌調の曲を次々ヒットさせる。
ジャズ、ブルースからお座敷ソングと刺激的な流行歌が多くなった時代に、オーソドックスな歌唱で叙情歌ものを歌い、異彩を放つ。一線を退いた後は、音楽教師としても活躍。

竹山逸郎 (1918-1984)

サラリーマンとして働くかたわら日本合唱団で歌っていたところをビクターにスカウトされる。
1947(昭和22)年、「泪の乾杯」が大ヒット。同年、藤原亮子とのデュエットで吹き込んだ「誰か夢なき」もヒットしスター歌手となる。
高音に安定感を欠くが、豊かな低音の歌声で、1948(昭和23)年には「異国の丘」、1949(昭和24)年には「月よりの使者」をなどをヒットさせる。

平野愛子 (1919-1981)

大村能章の日本歌謡学院で学ぶ。1946(昭和21)年、ビクターの新人歌手コンクールに優勝し、1947(昭和22)年、「お妙子守唄おたえこもりうた」でデビュー。
次に出した「港が見える丘」が大ヒット。1948(昭和23)年には「君待てども」をヒットさせる。
ウェットな歌声に気怠い歌い方で、ブルースタッチの曲を官能的に歌い、「若きブルースの女王」と呼ばれた。

榎本美佐江 (1924-1998)

1946(昭和21)年、テイチクから「貴方にはわからない」でデビュー。
1949(昭和24)年、ビクターに移籍し「お俊恋唄おしゅんこいうた」をヒットさせる。戦前に小笠原美都子が吹き込んだ「十三夜」を独特のビブラートがかかった美声で歌い再ヒットさせる。
1956(昭和31)年にプロ野球の金田正一と結婚し引退するが、1963(昭和38)年に離婚してカムバックする。

久保幸江 (1924-2010)

コロムビアの新人歌手募集に応募し、1948(昭和23)年、「千鳥なぜ啼く」でデビュー。
1949(昭和24)年、楠木繁夫とのデュエットで「トンコ節」を吹き込む。初めはあまりヒットしなかったが、1951(昭和26)年に加藤雅夫とのデュエットで再吹き込みしたところ爆発的にヒットした。続いて出した「ヤットン節」もヒット、芸者スタイルで一連の「お座敷ソング」を明るく歌い上げた。

三条町子 (1925-)

大村能章の日本歌謡学院で学び、1948(昭和23)年、キングレコードから「泪のブルース」でデビュー。
張りのある歌声と個性的な歌い回しで、1949(昭和24)年「かりそめの恋」がヒットする。他に「東京悲歌」「恋の火の鳥」などのヒットがある。
2012年、NHK総合テレビ「NHK歌謡コンサート」に87歳で生出演し、「かりそめの恋」を披露。

神楽坂はん子 (1931-1995)

東京・神楽坂で芸者をしていたが、西条八十、古賀政男の二人にその美声と不思議な色気が気に入られ、1952(昭和27)年、「こんな私じゃなかったに」でデビュー。
「テネシーワルツ」の日本盤として、西条・古賀コンビで作った「ゲイシャワルツ」が大ヒット。
戦後初の芸者歌手として、「見ないで頂戴お月さま」「こんなベッピン見たことない」と一連のお座敷ソングをヒットさせるが、1955(昭和30)年、突然引退。

川田正子 (1934-2006)

8歳の時に音羽ゆりかご会に入り、妹の川田孝子と共に童謡歌手として活躍する。「里の秋」「みかんの花咲く丘」「とんがり帽子」などを歌いヒットさせる。
その後、武蔵野音大に進み、1955(昭和30)年に卒業。澄んだ歌声と癖のない叙情的な歌唱で童謡を歌い続けていた。

@伊藤家の書斎

 




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