70-80年代アイドル・芸能・サブカル考察サイト

男装の麗人

男装の麗人
コメント

画像出典:Amazon「男装の麗人・川島芳子伝」

戦前、「男装の麗人」と騒がれた女性が2人いた。
1人はターキーこと松竹少女歌劇の水の江瀧子みずのえたきこで、1936(昭和11)年の清水宏の映画「有りがたうさん」でも、バスの車中の会話で女が男の恰好をするのをターキーというそうだ云々というのがあるくらいなので、相当な人気であったのだろう。
「男装の麗人」もう1人は川島芳子かわしまよしこである。川島芳子は清の粛親王しゅくしんのうの14番目の娘、レッキとした満州王族の王女であったが、1913(大正2)年に大陸浪人の川島浪速かわしまなにわの養女となり、やがて清王朝再興を夢見て大陸を舞台に諜報活動を行うようになった女性である。いつも髪を切って男のような格好をして、会話も男言葉であった。1933(昭和8)年の村松梢風むらまつしょうふうの小説「男装の麗人」のモデルとなった事から、一般にもその名を知られるようになり、レコードまで吹き込んでいる(COLUMBIA/27573)。

♪十五夜お月様明るいね家の子のように

男装の麗人

音程ハズレの「十五夜の娘」を聴く限り、これは川島芳子人気を当て込んでレコード会社が製作したものだとわかる。
また2月21日の東京朝日新聞夕刊には川島芳子の軍服姿の全身写真入りで、川島芳子が熱河自警団の総司令に推されたと報じられている。この記事の中では1932(昭和7)年9月のホロンバイルでの暴動で、日本人救出のために川島芳子が奮闘した事にもなっている。こうした華々しい活躍も川島芳子自身が「僕が働いたより以上の、何十倍かの宣伝が行われているので、全く面はゆい次第です」としており、実際に世間に思われているほど川島芳子は華々しい活躍を現地でしていた訳ではなかった。格好のプロパガンダの材料にされていたというのが正確なところらしい。

既に1932(昭和7)年3月1日に満州国は建国、清の最後の皇帝であった溥儀ふぎが執政となって復位しており、川島芳子のこの頃の大陸での役割は反満州国活動をする現地の中国人の動きを牽制するというものだった。何せ生粋の満州王家の娘であるから、その存在だけで関東軍にとっては大変な宣伝となったのである。

1933(昭和8)年、川島芳子人気が日本で高まるのと裏腹に、それまで川島芳子の大陸での活動をバックアップしていた関東軍の田中隆吉たなかりゅうきちと川島芳子は不和となり、事実上のお払い箱となって川島芳子は日本に帰国している。
田中隆吉は関東軍の起こした謀略に深く関わっていながら、戦後はアメリカ軍に協力して他の軍人らの「罪状」を洗いざらい提出、証言する事と引き換えに東京裁判の被告席に座る事を免れた人物で、その証言は多少、差し引いて読まねばならないだろう。田中隆吉の真意というのも、単に自分の命が惜しかっただけなのか、一部の軍関係者に戦争のすべての責任を負わせてその他大勢の日本人の免訴を図ったのか、判然としない。功罪相半ばといったところだろうか。

田中隆吉ら関東軍から見放された川島芳子は日本で伊東ハンニというスポンサーを見つける。
伊東ハンニは戦後に至るまで忘れた頃に新聞を騒がせる怪人物で、その正体は大物相場師だった。三重県鈴鹿郡の生まれで本名は松尾正直、伊勢の伊、東京の東、大阪の阪に、東京と大阪の2大都市で名を為すとして最後に2を付けて伊東ハンニを名乗っていた。ほかにも伊東阪二、伊藤ハンニ、イトー・ハンニと名乗っている場合もある。
1931(昭和6)年の株相場だけでも儲けに儲けて34歳の若さで300万円(現在の三十数億円)というから相場の神様というより、もうこれは昭和の怪物であった。なお伊東ハンニは前年にも150万円(現在の15億円以上)を儲けている。この伊東ハンニもレコードを出している(VICTOR/53086)。こちらは作詞だけであるが1934(昭和9)年に藤山一郎が吹き込んだ「オシャカサン」という歌は、

♪幸福のためオシャカサン、西洋資本のマルクスも、桜と柳の葉で埋めて

藤山一郎「オシャカサン」

といったわけのわからない歌詞であり、1932(昭和7)年より雑誌「日本国民」を創刊し、7月には国民新聞を買収、谷川徹三、大宅壮一、北原白秋、市川房江などそうそうたる人脈を起用して、自らは新東洋主義なる理想を掲げて政界を目指していた伊東ハンニの演説自体もわけのわからない内容であったという。

「人類の花冠『世界一』の三文字が、日本をさして、燕の如く太平洋を飛び渡って来る日。そして千万の健康なツバメは大陸を指して乱れ飛ぶ。地球は車輪の如くキラキラと回転して、刻々に日本が光ってきた」「僕は幸福でも世界は不幸である」「僕は、悲しみの敵と自ら称して、あらゆる社会の罪悪と戦って来た一青年である」といった調子で、巨額の富を得て、演説会はするわ新聞は買収するわ文化人をはべらせるわ、そして自分の作詞のレコードを出すわ、やりたい放題の伊東ハンニだが、陸軍に1万円(現在の1000万円以上)を寄付したりなど、とにかく目立つ事なら何でもした。

伊東ハンニに限らず、相場で成功した人間は往々にして度が外れた金の使い方をする。戦前の時点で伝説化されていた鈴木久五郎という株成金は、第1次大戦時に相場で成功した折に、畳のマス席だった歌舞伎座を将棋盤に見立てて東の桟敷に鈴久、西の桟敷に別の成金が陣取り、芸者11人、半玉9人をそれぞれ将棋の駒として東西相対してはべらせたという。着物の色で東西を見分けて帯には金、銀、桂馬と大きく染め抜き、鈴久は気に入りの芸者の酌で「角を動かせ」などとタイコモチに指示、まさに若い美女を駒に“人間将棋”であった。
成金の悪趣味な遊びで言えば、戦前、大阪の山内惣太郎は芸者を全裸にして座敷に敷き詰め、女たちの“田んぼ”へ“苗”を植えてまわり、戦後はビニールプールを座敷の真ん中に置いて4斗樽数本から酒をプールに流して、半玉連に“浅い川”を踊らせたという。こうした話を羅列すると伊東ハンニの行動がまともに見えるから不思議である。

伊東ハンニのバックには誰かついていたのではないかと囁かれ、戦後ならさしずめ笹川良一をバックに突如、青年相場師として名を挙げて国会議員にまでなった糸山英太郎が近い存在かもしれない。しかし伊東ハンニは糸山とは違って詐欺師として何度も逮捕されては出所するという繰り返しになる。

川島芳子はこの伊東ハンニの九段の家に同居していて、水谷八重子や栗島すみ子などの大スターがいつも遊びに来ていて華やかな生活であったという。
川島芳子の日本での華麗な生活は1935(昭和10)年4月6日の、この時には既に満州国皇帝に即位していた溥儀の来日までであった。川島芳子自身も病気となって活躍の場もどこにもなく、過去からの人気で講演などをして食いつないでいるような感じで、養父の川島浪速は逼塞して隠居生活をしており、「株式相場の天才」と称して大阪府の実業家から大金を巻き上げて天理教からの65万円の詐取事件による裁判の最中に逃走していた伊東ハンニはすでにその勢いを失っていた。

1937(昭和12)年、川島芳子は天津で中華料理屋東興楼を開業し、本人の気持ちはともかく実質的には次第にただの中華料理屋の女将という地位以外の何者でもなくなってゆく。
1940(昭和15)年頃からは関東軍にとっては川島芳子は迷惑な存在でしかなくなり、ひそかに始末してしまおうという動きもあったと、この頃、川島芳子と親しかった笹川良一は後に回想している。当時から大物右翼で軍にも睨みの利いた笹川の庇護の下に入った川島芳子は生命は安全になったものの奇行を繰り返すようになったが、笹川との信頼関係は「いっちゃん」「お兄ちゃん」と呼び合う仲となり、交際を結んでいた。その関係は戦後何年も経って川島芳子のヌード写真なるものが出回った時に、笹川はそのすべてを金にあかせて買い占めて門外不出にして破棄させたとの噂もあったほどであった。一説には川島芳子は笹川に保護された時には既に麻薬中毒になっていたという噂もあるが確証がない。

日本の敗戦時に中国にいた川島芳子は1945(昭和20)年11月に現地の中国政府に逮捕され、1948(昭和23)年3月25日朝、銃殺されて40年の人生を終えた。川島芳子が実際に間諜として活躍したのは1931(昭和6)年から1933(昭和8)年まで、それも巷間伝えられているような華々しい活躍ではなく、その多くは虚構であったという。
それ以降はひたすら過去の虚飾の栄光でスポットライトを浴びもしたが、それがまた川島芳子の存在を過大評価させる事につながって命を落とす原因ともなったのだった。銃殺にあたっては自分1人に一切の罪が集まるようにして他の関係者をかばい続け、間諜活動の本当の黒幕であった田中隆吉すらもかばって関係者をすべて救って散った川島芳子は長野の松本に眠っている。

@誰か昭和を想わざる


参考
上坂冬子「男装の麗人・川島芳子伝」(文春文庫版)1988年
佐藤誠三郎「笹川良一研究」1998年
人物往来3月号「御巫芳圀・豪遊贅沢物語」1957年
東京朝日新聞「男装の麗人川島芳子嬢 熱河自警団の総司令に推さる」1933年
東京朝日新聞「全世界注目の焦点となれる新しき日本国民主義」1932年
東京朝日新聞各記事など 1939~1948年
[映像] 清水宏「有りがたうさん」1936年
[音楽] 川島芳子「十五夜の娘」1933年
[音楽] 藤山一郎「オシャカサン」1934年




情報提供・コメント

タイトルとURLをコピーしました