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敗者に向けられる情け容赦のないアングル

敗者に向けられる情け容赦のないアングル

プロ野球の後半戦がスタートした。
地上波のテレビ中継は巨人の開幕戦や優勝が決まる試合くらいしか放送されなくなった反面、BSやCSで12球団の全試合を試合開始から終了まで見ることができるので、ファンとしては野球人気の低迷は多少は気になるところだが個人が悩んでも仕方がないことなので、自宅のリビングにあるケーブルテレビを付け、ゆったりと寛いだ気分で野球中継を観戦している。テレビに向かって贔屓のチームに声援を送るお手軽な娯楽で、日本の夕食時に見られるありふれた光景である。

応援するチームのピッチャーが好投し、お気に入りの野手がホームランを打ち、最終回にマウンドに上がったクローザーが相手チームから三振をとり、勝利を手にする。
応援チームが勝ったときは繰り返されるハイライトシーンを見続ける。スローモーション映像が描くホームランの軌跡を何度でも眼で追ってしまう。
お茶の間ではこの一連のプロセスに一喜一憂し、昔は巨人が優勝すると景気が上がったという。

一番の盛り上がりは、何と言っても応援チームの得点シーンだ。
得点圏にランナーをおいた緊迫した場面。バッターの鋭いスイングで均衡を破る勝ち越しタイムリーヒット。ランナーはホームベースに滑り込みセーフの判定。ヒットを打った選手は塁上でガッツポーズ。決勝点のベースを踏んだ選手は息が上がったまま喜びに破顔しベンチで待つチームメイトとハイタッチを交わし、首脳陣たちに迎えられる。
汗まみれの顔と顔。球場内に響く声にならない声援と声援。疑似的とはいえ、この喜びの輪に視聴者は加わり、共に喜びを分かち合う。

得点が入るとき、誰もが描く典型的なシーンだ。
ところが画面いっぱいに大写しされるテレビ映像は、打たれたピッチャーの姿。
勝者ではなく、まずは敗者の映像。
打たれたピッチャーにカメラは執拗に纏わり付き、視聴者に映像を送り続ける。得点シーンより多い時間を割いて。

誰が見たいというのか。
打ったチームのファンは得点に喜ぶシーンを見たい。
打たれたチームのファンは項垂れる選手など見たくない。
誰も見たくない映像。

いつからだろうか、誰も見たくない映像が流れ出した。
テレビ局の倫理規定というと大袈裟になるが、放送ポリシーの軽薄さは徐々にエスカレートし、最近ではノックアウトされてベンチに退いたピッチャーの意気消沈した焦点の定まらない虚ろな両目を、アイドル歌手よろしくドアップで捉え、これでもかとテレビ画面いっぱいに引き延ばす。
敵味方関係なく、無神経な映像に思わず目を背けてしまう。

得点を許した代償を払わされているのだろうか。もしそうならそれは一体誰に払われるのだろう。ファン? チームメイト? 球団? 思い当たらない。
野球は何が起きるかわからないという名言を以ってメイクドラマと言われるが、打たれたピッチャーを悲劇の主人公さながらに仕立て上げて寸劇でも演出しているつもりなのだろうか。

解せない。
映像を追いかけるカメラマンは役割分担として仕方のない行為だとしても、カメラ割りを担当するテレビ局の人間の品位を疑う。余程のサディストなのか。
それとも敗者を大写しする需要があり、商業ベースに沿ったカメラアングルなのか。
熱狂的なファンは対戦相手の負けた姿もお楽しみの一つなのか。

私はこの映像を見るたびに、折角の得点シーンに水を差された白け気分と憤りが絡み合った複雑な気持ちに陥り、楽しさは半減どころが消え去ってしまう。
逆転したときなど、これまでの鬱憤を晴らして溜飲を下げたにもかかわらず、その最高潮を狙ったかのように映し出される敗者のクローズアップは、見て見ぬ振りをしても、何か釈然としない嫌な気分が残る。逆転したのに素直に喜べない映像の切り出しの妙。それが醸し出す不愉快さには閉口せざるを得ない。

この敗者へ向けられる情け容赦のないプロ野球中継のカメラアングルに現れる行動の本質とは一体なんだろうか。
実はそんなものは一切なく、テレビの四角い映像は子供から大人に至る社会全体に蔓延する差別やいじめを同根としたプリミティブな利己主義が見事に露見した実例であって、人間の尊厳や人権および正義を標榜して憚らないメディアが、あろうことか己の媒体を通して世の中にエゴイズムのゴリ押しを拡散している構図にも見えてくる。

今秋にもNHKが開発したハイブリッドキャストを用いて、スポーツ中継などで視聴者が好きなアングルを選択できる新技術のサービスが開始するという。
そのカメラアングルのひとつに、これは冗談だが敗者モードがあったら怖いと思う。

 


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