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飯野矢住代

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分類歴代ソロ

いいのやすよ。1950年3月9日生まれ、東京都文京区駒込神明町(現・本駒込)出身、田無市(現・西東京市)と渋谷区円山町育ち。
身長:169cm、体重:51kg、B:84cm、W:60cm、H:90cm。
本名:飯野裕代(読み同じ)、旧芸名:飯野やすよ、別名義:オリベゆり。
元・ミスユニバース日本代表、ジャニーズ事務所の女性第一号タレント。
数多くの著名人と浮名を流し、波乱万丈の末、1971年12月28日、わずか21歳の若さで焼死。激動の昭和に短く咲いたあだ花。
矢住代はジャニーズ事務所出身のすべてのタレントの中で最初にこの世を去った人物である。

生い立ち

飯野矢住代(本名:裕代)は、1950年3月9日、東京都文京区駒込神明町(現・本駒込)で生まれた。100坪の土地に77坪の豪邸。天井にはシャンデリア、庭には築山があり、使用人が何人も居るような家だった。しかし、母・飯野辰子はいわゆる“囲われ者”だったため、矢住代は父の居ない私生児であった。茨城県北茨城市磯原に鉱山を持つ鈴木清が、渋谷区円山町で「一二三(ひふみ)」という源氏名の芸者だった辰子を1946年に身請け。以後、1961年まで約15年間に渡って辰子を囲っていた。この2人の間に産まれた子供が矢住代だった。

2歳の時に肋膜(結核)を患った矢住代は、医者に「3日ともたない」と言われながら、奇跡的に一命を取り留めた。しかし、「今後病気をさせたら命の保証はしない」と医者に言われ、辰子は壊れ物でも扱うかのように大切に矢住代を育てた。朝は10時まで寝かせ、専任の看護師まで付けるという生活だった。

この裕福な暮らしが、ある日突然崩れ去る。矢住代が10歳の時、石炭産業の斜陽化で鈴木の会社が倒産。再起するためには、家屋敷を売却しなければならず、もう飯野たちを囲うことが出来なくなった。
母娘2人は田無市(現・西東京市)の畑の中に引っ越し、辰子は再び三味線を持って芸者に戻った。母の居ない家で幼年期を迎えた矢住代は、父が居ないコンプレックスと母に置き去りにされる寂しさとが重なり、長い反抗期を送るようになった。

やがて、田無市から母の職場がある渋谷区円山町に移る。母一人子一人の生活は苦しく、小さな二間きりの風呂なしアパートで暮らした。辰子は自宅で芸者置屋『光清みつきよ』を営む女主人だったが、実際は名ばかりで芸者は辰子1人しか居なかった。

1964年、渋谷区立松濤中学校しょうとうちゅうがっこうの3年生になった矢住代は、当時テレビドラマ『次郎物語』(1964年4月7日~1966年3月29日、NHK総合)の主演で人気を博していた「劇団こまどり」所属の同い年の子役俳優・池田秀一(1949年12月2日生まれ)のファンとなり、追っかけを始める。矢住代は池田に会うために、『次郎物語』を撮影していた千代田区内幸町のNHK・日比谷会館に通い詰めた。
(なお、『週刊平凡』1972年1月20日号に書かれている「当時彼(池田)は中学2年、彼女(矢住代)が1年だった」という記述はいずれも誤り。実際は2人とも中学3年生。また、この『次郎物語』に出演していた子役俳優の宮城熙松みやぎひろまつが、後にジャニーズ事務所に入所し、ジャニーズJr.になっている)

芸能界へ

矢住代は家計を助けるため、1965年3月に松濤中学校を卒業すると、高校へは行かずにモデル業を始めた(この時から「飯野やすよ」、途中から「飯野矢住代」の芸名で活動)。ザ・ワイルド・ワンズのコスチュームデザイナーのアシスタントとして、衣装のデザインに加わったり、親しかった内田裕也(当時、ザ・フラワーズのメンバー)の紹介で初代ジャニーズの付き人を始めるようにもなった。

そうした中、当時ジャニーズのバックバンド「ジャニーズ・ジュニア(初代)」のメンバーだった嶺のぼると非常に親しくなる。片親だった矢住代は、嶺が家族と住む三鷹市井の頭のアパート「さかえ荘」に夕食を食べに頻繁に通い詰めた。帰りは井の頭線の三鷹台駅から上りの電車に嶺も同乗し、一旦終点の渋谷駅まで2人で行くが車両からは下りず、やがてその車両が下りの最終電車として折り返し運転を始めると、矢住代は神泉駅で下り、嶺は三鷹台駅まで帰っていくというのがいつものパターンで、恋人関係ではなかったが、嶺との交友は2年ほど続いた。一方で、矢住代は夜の赤坂や六本木で遊びまわるようにもなり、当時は周囲から「深夜族」と見られていた。

こうした生活の中で、業界人の人脈が一気に広がっていき、内田裕也を通じて、飯倉片町のイタリアンレストラン「キャンティ」ではザ・スパイダースの面々とも知り合った。
矢住代は中学3年の終わり頃から詩作を始めており、詩を書き溜めた大学ノートは当時で既に10冊を超えていた。それを知ったスパイダースのメンバー、かまやつひろしが、その中の一篇に曲をつける。これが、ザ・スパイダースの6枚目のシングル『サマー・ガール』のカップリングに収録されたサイケロック『なればいい』として1966年7月1日にリリースされた。矢住代の作詞家名義は「オリベゆり」。常に欲求不満、刹那的で、ヤケになって生きていた当時の矢住代の心境がそのまま綴られており、シュールな作品として評価が高い。

16歳の後半に、車の中で強姦される。相手の男は矢住代にずっと好意を寄せてきた友人で、日活の若手俳優(イニシャルはI)。これが矢住代にとっての初体験となった。

ミス・ユニバースへの挑戦

1967年、長身のスタイルを活かして商店会主催の小さなミスコンテスト「ミス渋谷(別名:ミス東京)」に出場し、優勝する。同じ頃に、銀座のクラブでホステス業も経験。

1967年の暮れより矢住代の母親が、過労によって抵抗力が弱まっていたのか、結核を発病する。

1968年1月発売のザ・バーズのデビュー曲『ごめんなさいね』の作詞を、吉田央(後の吉田旺)との共作で手がける。(矢住代のクレジットはなし)

1968年2月、ザ・タイガースの加橋かつみ(愛称:トッポ)と交際を開始。矢住代にとって初めての彼氏。
しかし矢住代の登場によって加橋の生活態度は一変。夜遊びに埋没するようになり、バンドの規律を大きく乱すきっかけとなった。オノ・ヨーコはビートルズ、ナンシー・スパンゲンはセックス・ピストルズのメンバーから疎まれたように、矢住代もまた、サークルクラッシャー、ファム・ファタールとしてタイガースのメンバーから疎まれた。

1968年5月5日、「ミス・ユニバース」の日本大会に出場し、見事優勝。日本代表となる。
会場は大阪市大淀区(後の北区)のABCホール。応募総数は2,836人。全国7地区の代表21人で競い、審査員は、伊藤邦輔(万国博催し物のプロデューサー)、小磯良平(画家)、那智わたる(女優)ら10人だった。優勝の賞品として、自動車、カラーテレビ、婚礼家具一式などが贈られた。更に矢住代の母・辰子が創価学会員だったため、後日、池田大作からも豪華なプレゼントが贈られた。

しかし、優勝の挨拶の際に矢住代が、「私は二号さんの娘です…」と、芸者の私生児である自分の生い立ちをいきなり語り出したことが問題となる。この告白は当時のジャーナリズムを大いに騒がせ、週刊誌などは競い合うかのようにこのネタに飛びついた。
日本代表選考会の主催者、フランチャイズ・ホルダーだった「国際親善友好協会」は、この事実に落胆。矢住代の最終学歴が中卒という点にも難色を示し出した。そしてマスコミに対し、「今年からミス・ユニバースの日本代表のレベルをアップしようと思ったが、やはりうまくいかなかった」(週刊新潮、1968年5月18日号)、「我々としては、彼女がマイアミで入選でもしたら、また問題になるし、今度は国際的なことになってしまうので、それを一番恐れているんですよ。この上はすんなり落ちて、なるべくニュースにならんことですね」(同誌、1968年6月15日号)とまでコメントしている。

矢住代の自宅には「二号」、「妾の子」などのイタズラ電話も相次ぎ、右翼を名乗る男からは「貴様は日本の恥だ。世界大会を辞退しないと、家がどうなっても知らんぞ」と脅された。日本刀を持った男が、円山町の矢住代のアパートに怒鳴り込んできたことまであった。
国際親善友好協会は矢住代に対して日本代表を辞退するように勧告したが、矢住代はそれをつっぱね、マナーや英会話の特訓を受けたり、関係各方面への挨拶回りに追われる日々を送った。ところが、本来アメリカへの渡航費は協会が負担するはずだったが、一切出してもらえないことになった。仕方なく矢住代は業界関係者の間を駆け回るも、思うように資金が集まらずにいた中、洋服デザイナーの知人を介して山口洋子(後の作詞家・小説家)と出会い、山口が銀座で経営する最高級クラブ「姫」のホステスとして、破格の200万円という契約金で働くことを条件に、渡航費用をまかなった。
新たな晴れ着を買う余裕までは無かったので、母の友人から贈られた黄八丈を1枚持ち、協会からは介添人さえも付けてもらえない中、母と二人だけで1968年6月下旬にアメリカに渡り、7月13日にフロリダ州マイアミビーチで行われたミス・ユニバース世界大会に強行突破で出場。
その結果、矢住代はアメリカの審査員のミセス・アブトンやイスラエルの審査員からは盛んに褒められたが、入選には至らず、各国代表の互選(出場者同士の投票)による「ミス・アミティ(親善)」に選ばれるに留まった。
そして日本へ帰国した日、羽田空港のロビーには50名ほどの記者が集まっており、そのまま会見が行われ、矢住代は「親善協会の仕事が済み次第、銀座のクラブホステスになる」と宣言した。

ホステス、派手な異性関係、出産

親善協会との契約期間を終えた矢住代は、山口洋子が当時銀座で経営していた最高級クラブ「姫」でホステスとして勤務開始。当時の同僚には、大門節江(梅宮辰夫の最初の妻。その後「大門節子」の芸名で歌手デビュー)や、女優の山口火奈子が居た。(なお、矢住代が店を去った後には、田辺まりこ、カルーセル麻紀らも「姫」に入店している)

更に、かつて「初代ジャニーズ」の付き人をしていた縁で、ジャニーズ事務所でタレント活動も開始した。雑誌の水着グラビアや、映画『やくざ刑罰史 私刑(リンチ)!』(1969年6月27日公開、東映。百合役)、テレビドラマ『プレイガール』の第18話「新宿喜劇・女のムシが騒ぐとき」(1969年8月4日、テレビ東京)、『セブンティーン -17才-』の第2話「ちょっぴりやけちゃうな」(1969年8月5日、日本テレビ)などに出演。並行して舞台の話も決まりつつあった。

その一方で、恋多き女だった矢住代は、おぼっちゃま育ちで背の高い大学生(松濤中学時代の同級生)との交際を経て、駆け出しのバンドマンだった1歳年上の混血男性、ジョニー・レイズ(後のジョニー吉長)と1969年1月末より交際を開始し、同年4月、矢住代はまだ19歳になったばかりだというのに、早くもジョニーとの子供を懐妊した。

さすがに「ミス・ユニバース日本代表のホステス」という肩書きの効果は大きく、高級クラブ「姫」での人気は一番で、1日の報酬も1万5,000円(令和初期の価値で6万円)を稼ぎ出していたが、それでも飽き足らず、矢住代は無職の彼氏・ジョニーに貢ぐために、山口洋子に金を無心してバンス(前借り。アドバンスの略)を続けた。
『平凡パンチ』(1969年4月7日号、平凡出版)では、「飯野矢住代と8人の男 18歳のセックス・ヒストリー」というタイトルで5ページに渡るインタビュー記事も組まれた。この他にも当時の矢住代の周りには、矢住代に憧れを抱きながらも手が届かずにいる無数の取り巻き男性が居り、彼らからは「女神」として崇められていた。

矢住代は母親の反対を押し切り、原宿のワンルームのアパートでジョニーと同棲を始める。矢住代は毎日、マーガレットやピンクのバラを買って部屋いっぱいに飾った。バスルームには、ジョニーのために拡大鏡の付いたヒゲソリ用の鏡も設置した。
しかし妊娠が発覚したことで、ジャニーズ事務所の副社長・メリー喜多川と衝突。1969年後半に事務所を解雇される。(なお、矢住代はその後で飼い始めた愛犬に、「メリー」という名前を付けている)

やがて、ジョニーへ貢ぐためのバンスもかさんで限界に達したため、「もうバンドはやめて働いて」との矢住代の願いを聞き入れたジョニーは、バンドを抜けて、理容師になるべく見習い修行を始めた。矢住代も、徐々にお腹の大きさが目立ち始めたため、1969年9月半ばから「姫」での勤務は産休に入ったが、母親の友人のそのまた友人が経営する高田馬場の場末の小さな喫茶店でウェイトレスをするようになった。そして住まいも、母・辰子の住む円山町の小さなアパートに戻り、3人で同居するようになった(『女性自身』1969年11月8日号参照)。

当初は矢住代とジョニーの仲を反対していた母親だったが、3人で一緒に住むようになってからはジョニーを気に入り、ジョニーの服や下着も母親が洗濯してあげるようになった。また、ジョニーはレストランの経営を新たな目標とし、「姫」の山口洋子の紹介で同年11月のはじめから赤坂のサパークラブのボーイとして働くようになった。月給は5万円(令和初期の価値で15万円ほど)。
矢住代は、「ジョニーは私の夫です」と周りに伝えていたが、ジョニーは私生児で無戸籍だったために籍は入れられず、正式な結婚ではなかった。

妊娠4ヶ月の状態で、矢住代が雑誌『女性セブン』(1969年11月19日、小学館)にてジョニーと共にヌードを披露。(見出し:「飯野矢住代が妊娠4か月!彼は混血児・ジョニー(GSのバンドマン) ゼッタイ、赤ちゃんを生みます」)

出産予定日は1970年2月26日だったが、1969年12月22日の夕方に産気付き、同日19時15分、渋谷区広尾の日本赤十字社中央病院(後の日本赤十字社医療センター)で2,150グラムの男児を出産。しかし、予定より2ヶ月も早い出産で未熟児だったため、保育器に入れられた後、呼吸困難に陥ってチアノーゼも起こし、生後24時間も経たずに男児は12月23日17時19分に死亡してしまった。(なお、2019年7月9日にジャニー喜多川が死去したのも同病院)
ジョニーは父親として認知はしたものの、矢住代とは入籍が出来なかったため、男児は矢住代の籍に入れることとなり、ジョニーと矢住代の本名(信喜と裕代)を掛け合わせ、「飯野信裕(のぶやす)」と名付けて戸籍に刻んだ。

1970年1月22日、矢住代は再び日給1万5,000円を稼げる銀座の高級クラブ「姫」に戻った。ジョニーは赤坂から青山のクラブに移って働いていたが、同年3月、矢住代に「もう一度音楽をやりたい」と切り出し、矢住代もそれを了承。同年5月に同棲生活を解消し、ジョニーはバンド「カーニバルス」に復帰した。

雑誌『週刊平凡』(1970年5月21日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)にてフルヌードを披露。

ジョニーと別れて独り身を謳歌していた矢住代だったが、破局の件はすぐに知れ渡り、ジョニーの後釜を狙う男たちが次々と矢住代の前に現れた。青年実業家、芸能人(俳優の藤竜也など)、芸術家、テレビマン…。中には愛人契約をチラつかせる財界人もいた。愛人契約やパトロンの申し出は断ったが、八百屋の次男坊、俳優・西郷輝彦など、様々な男性たちとの交際を始めた。そして男たちと過ごす時間の方が増え、更にホステスという仕事自体も徐々に嫌になり、「姫」での仕事は休みがちになっていった。

男が出来るたびにその男の部屋に住み着いては限界まで金を貢ぎ、別れるとまた円山町のアパートに戻るの繰り返しだった。やがて、その様子を見かねた「姫」の常連客で音楽評論家の木崎義二が、妻と相談した上で、矢住代をしばらく自宅に下宿させることにした。

なお、交際期間は1~2ヶ月と短いものだったが、3歳年上の西郷輝彦のことは特に深く愛した。西郷とは、1971年2月9日に「姫」で初対面。お互いに一目惚れだった。初めてのデートは西郷の運転するムスタングで行った江の島。その後は、西郷の家に通ったり、山中湖で一晩中愛し合ったり、深夜の六本木で肩を組んで歩いたり、好きな歌をデュエットしたりなどのデートを楽しんでいた。しかし、当時の矢住代は芸者をしている母の勧めで、午後の空いた時間に日本舞踊の稽古に通っていたのだが、西郷に夢中になるあまり、稽古に行く足が遠のいていった。それを見かねた母が、矢住代と西郷の双方に対して不満を漏らし始める。更に西郷の周辺の人間も、矢住代の過去をあることないこと吹き込んだりしたため、次第に西郷との仲もしっくりいかなくなり、破局を迎えた。(なお、西郷は翌1972年に早くも辺見マリと結婚している)
その後、矢住代は「姫」には戻らず、銀座の別のクラブでホステス業を再開。しかし、毎回バンス(前借り)を作って借金を抱えながら、短期間で店を転々とするようになった。

雑誌『平凡パンチ』(1971年8月10日号・臨時増刊 STAR NUDE特集号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)にて、再びフルヌードを披露。

不慮の死

矢住代は様々な男性と交際する中、かつて中学3年生の時に追っかけをしていた同い年の俳優・池田秀一(後に声優。代表作はアニメ『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブル役)と、1971年7月に芸能人の溜まり場だった渋谷の高級会員制絨毯バー「深海魚」にて約7年ぶりに再会。当然のごとく2人はすぐに親密な関係となり、以降も「深海魚」などで飲んだり、池田の趣味であった乗馬も一緒に楽しんだ。池田の誕生日には黒色のスーツをプレゼントし、週2回ほどの頻度で池田の住んでいたマンションの部屋にも通っていた。
(笹塚駅南口の目の前で、線路沿い、玉川上水横の「京王笹塚コーポラス2号棟」。渋谷区笹塚1-47-2-719号室。1967年築。別名:京王重機ビル。このマンションには後に潮哲也・九条亜希子夫妻や比企理恵も住んでいた。老朽化により2011年9月に解体され、2015年3月から複合施設「メルクマール京王笹塚」に)

そして矢住代は池田の部屋で、年の瀬の1971年12月28日、わずか21歳の若さで不慮の死を遂げた。
それは、池田がジャニーズ事務所のタレント・内田喜郎との共演ドラマ『美人はいかが?』(TBS)のロケで聖蹟桜ケ丘に行っていた際の留守番中に起きた事故だった。

矢住代はまず、同日の朝9時に池田の部屋を訪問。そして池田のために急いで卵焼きとスープを作り、9時半にロケ仕事に向かう池田を見送った。そして午前中、マンションの下の酒屋に行ってサイダーを買っている。
その後、風呂に入りたくなった矢住代は、浴槽に水を入れて点火。しかし、ポリエチレン製の浴槽の排水栓がわずか数ミリずれたままになっていた。その隙間から水が漏れ抜け、やがて空焚き状態になってしまい、ガスの火がポリバスや新建材の壁、天井に引火し、約20平方メートルを焼いた。
合成樹脂を焦がすことで、有害ガスと一酸化炭素が室内に充満していく中、矢住代は6畳間の寝室のベッド脇で、ストライプのシャツ、矢がすりのミニスカート、その上からエプロンを着けた姿のまま、深い眠りに落ち込んでいた。

矢住代は前夜から徹夜で、行きつけだった渋谷の「深海魚」などで飲み歩いてきた後だった。
やがて煙に巻かれ、蒸し焼きのような状態で意識不明に。事件の第一発見者は、同じ階の705号室へ出前の器を回収しに来た笹塚の「弥生そば」の店員の青年(当時26歳)だった。同日14時50分頃に池田の部屋の換気窓から黒煙がもうもうと廊下に噴出しているのを発見。青年曰く、「息をするのも苦しかった」という程の煙だった。青年はすぐに管理人に通報。そして渋谷消防署員が駆け付け、通報から20分後(消火作業開始からは5分後)の15時10分に火が消えた。火元の風呂場では浴槽がドロドロに溶け、通風筒はぐにゃりと曲がり、タンスの中にまで黒いススが入り込んでいた。

消防署員によって発見された意識不明の矢住代は、髪の毛、顔、鼻の穴までススで真っ黒の状態だった。すぐさま渋谷区幡ヶ谷の黒須外科病院(後のクロス病院)へ運ばれたが、途中、15時15分に息絶えた。
マンションの2号棟は、3階から9階までが住居スペースだったが、玄関通路がちょうど笹塚駅のホームに面していたため、電車を待つ乗客たちが火災の煙が出始めた段階ですぐに気付けていたら、あるいはすんでの所で一命を取り留めていたのかもしれない。しかし当時の笹塚駅はまだ高架になる前で高さが足りず、ホームの屋根を越えたはるか先の7階の通路を見上げるような乗客は、なかなか居なかったものと思われる。
なお、矢住代には約500万円(令和初期の価値で1500万円)もの借金が残ったままであった。
(山口洋子の著書『ザ・ラスト・ワルツ ~ 「姫」という酒場』では、「置きごたつからの出火。第一発見者は帰宅した恋人」などと書かれているが、どれも誤り)

遺体の状態が悪かったのか、先に幡ヶ谷の「代々幡斎場」にて12月29日に荼毘に付され、その夜に遺体の無い状態で通夜、翌30日に葬儀・告別式が骨葬として執り行われた。斎場には池田秀一の他、矢住代が親しくしていた音楽評論家で「姫」の常連客・木崎義二、そして母・辰子だけでなく、父・鈴木清も訪れた。更に、矢住代が当時交際していたもう一人の男性・小泉氏(ギター講師、当時25歳)も現れたことで、三角関係にあったことも発覚した。

池田はその後、女優・声優の戸田恵子と結婚したが短期間で離婚し、12歳年下の女優・声優、玉川砂記子と再婚。一方の戸田恵子は、ジャニーズ事務所出身の井上純一と再婚するが、やはり離婚している。

母・辰子は、結核だけでなく、胃と心臓の病気、喘息なども重なっており、矢住代が亡くなるより2ヶ月前の1971年11月から、清瀬市の織本病院に入院していた(当時48歳)。矢住代は、ふぐ刺し、茶巾寿司、大皿にのせたマグロの中トロ、純白のシクラメンなど、いつも豪華な見舞いの品々を持って、頻繁に母の病室を訪ねていた。そして、「正月には(愛犬の)メリーを連れて、一緒に熱海に行こうね」と、病床に伏せている母に話しかけていたが、2人が会ったのは12月24日のクリスマスイブが最後となった。

音楽評論家の木崎義二の妻から矢住代の死を知らされた辰子は、強壮剤を打って幡ヶ谷の病院に向かい、変わり果てた娘を前にして大声で泣き崩れた。
その後、辰子は退院して円山町のアパートに戻ったが、やがて寝たきり状態となり、矢住代の死から半年後に後を追うように他界した。
矢住代は、東京都豊島区の寺院に、早逝した愛児と共に眠っている。




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