かがはちろう。1958年2月28日生まれ、東京都目黒区祐天寺出身。
「THE GOOD-BYE」のベーシスト&ボーカル。愛称:ハチ、ぱっつぁん、はっつぁん、はっちゃん。デビュー当初の愛称:スヌーキー。(歌手の春日八郎から「ス」の文字を抜いた名前だから。これに、「スヌーピー」の語感を掛け合わせて名付けられた)
2013年7月2日、多発性骨髄腫で死去。55歳没。妻は漫画家の池沢理美。
[参加バンド]
[その他の参加バンド:グッバイ結成以前]
- ハイタイムストリートバンド(元「ミネソタ・ナイトフォークス」。1977年に数回のライブで解散)
- マタス(1982年~1983年。加賀、楠瀬誠志郎、大滝裕子、小野純次、佐藤強一、矢作義明)
[その他の参加バンド:グッバイ活動中]
- theOM(1984年~ B:加賀、シンセG:野村耕二、Dr:岩城和平)
- 爆風スランプ(1989年。サポートベーシストとして参加)
[その他の参加バンド:グッバイ活動休止後]
- MB’s(「THE 真心ブラザーズ」のサポートバンド。1990年~1991年)
- Flying Asian Farmers’ Band(1990年~2001年)
- 池沢理美バンド(1990年~2005年4月)
- ことぶき荘(1994年頃。B.Vo:加賀、G:野村耕二、Pr.Vo:岩城和平、Dr:岩城未来)
- えじら(2004年12月~。Ba.Vo:加賀、Vo:池沢、G.Vo:江崎哲朗、Dr.Vo:吉田宏治)
- 加賀屋エトランゼ(2005年4月&7月、2006年7月)
- LOW-GUNS(2005年4月)
- 五野姫(2005年7月)
- 加賀屋(2005年8月)
- BAB(2008年~)
- OTOKO-BYE(2007年12月~2008年)
1982年4月に行われたザ・グッバイのメンバー募集オーディションの時、加賀はバックバンドを務めていた。しかし、1983年5月4日のグッバイの結成記者会見が近付いてきても、オーディションの候補者の中からは結局良いベーシストが見付からなかった。そこで、メインの野村義男と曽我泰久が、オーディション終了後もずっとヘルプとして関わっていた加賀を、「もうこいつでいいや」と、会見のわずか一週間前にグッバイに採用した。
1990年3月31日のザ・グッバイ活動休止後も、多数のバンドに参加して音楽活動を継続。
2010年5月より体調が悪化し、同年7月に多発性骨髄腫(血液の癌)との診断を受け、闘病生活にあることを同年10月2日付のブログで報告。同年中に腎不全も併発した。退院後は自宅療養に入り、人工透析やMRI検査などでの通院が続いた。
そうした中、2013年1月27日にはバンド「えじら」&「ガムガムブラザーズ2」による、『加賀八郎復活祭』と題したライブを開催。更に同年5月1日には加賀の自宅にグッバイのメンバーが全員集まり、年内のデビュー30周年記念ライブについてのミーティングも開いたが、その矢先に加賀の体調が再び悪化。同月25日に予定されていたバンド「えじら」でのLIVEにも欠席し、同月27日より再び入院生活に入った。
そして肺炎を併発しているとの診断を受け、2013年7月2日午前10時15分に逝去。55歳没。通夜は同月4日、葬儀・告別式は5日に祐天寺・祐光殿で営まれた。
グッバイのメンバー・野村義男は、「今日お見舞いに行って、いっしょに笑って写真撮ろうと思ってた日に死ぬんじゃねぇ~よ。涙が止まらないじゃんか。ふざけやがって」と、
曾我泰久は、「今朝、盟友 加賀八郎くんがこの世を去りました。いまだに信じられません。言葉になりません。無念です」、「ぱっつぁんと一緒にバンドをやれた事を誇りに思います。そしてこれからもぱっつぁんが残した曲を歌い繋いでいこうと思います」と、
そして衛藤浩一は、「ぱっつぁんが旅立っちゃった。正直まだ信じらんないけど…最期まで、強かったね。今まで本当にありがとうでした。とにかく今はゆっくり休んでね。さよならはまだ言わないよ」と、それぞれ盟友の死を悼んだ。
加賀の闘病生活を、妻・池沢理美が描いた漫画『はっちゃん、またね ~ 多発性骨髄腫とともに生きた夫婦の1094日』(講談社 KCデラックス BE LOVE)が、2015年12月11日に発売。このコミックの巻末には、グッバイのメンバー3人のメッセージも掲載されている。
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