『美空ひばり』『江利チエミ』『雪村いづみ』。
昭和初期のジャズ(洋楽)・ソング・ブームの資産を背景としながら、FEN(極東放送、現AFN)から流れるブギウギ、マンボ、ブルースといったニューリズムの影響を受けた戦後の日本ポップス界に、ルイ・アームストロングの来日で頂点を迎えたジャズ・ブームの渦中に誕生した『三人娘』は、歌謡界の華として活躍をみせ、のちに日本固有の歌謡曲や演歌と呼ばれる基礎を築いた。
美空ひばり (1937-1989)
横浜に魚屋「魚増」の娘として生まれる。
1946(昭和21)年にアテネ劇場で9歳でデビュー。1947(昭和22)年に音丸一座で高知県を巡業中にバス事故に遭遇。この時に杉の木に将来のスターとなる事を誓った。
1949(昭和24)年に芸名を美空ひばりとし、映画に初出演、またデビュー曲となる「河童ブギウギ」も吹き込む。
笠置シヅ子の持ち歌であった「ヘイヘイブギ」をステージで歌っていたところ、笠置サイドからクレームがついた話は有名。同年には映画「悲しき口笛」に主演して同名の曲も10万枚のヒット、一躍、天才少女として名を馳せた。この「悲しき口笛」は戦後まもなくのヒット曲「悲しき竹笛」を凌駕するほどであった。しかし子供らしくないとその異質の才能を非難する声も少なくはなかった。
1950(昭和25)年にはハワイ公演を行い「東京キッド」と谷内六郎が大好きだったという「越後獅子の唄」が、1951(昭和26)年には「私は街の子」「あの丘越えて」がヒット。
1952(昭和27)年には歌舞伎座でリサイタルを開き、ラジオドラマ「リンゴ園の少女」の主題歌「リンゴ追分」や「お祭りマンボ」などがヒット。
江利チエミ、雪村いづみと「三人娘」と評された。同年から1965(昭和40)年まで、「平凡」の人気投票で常に一位の座をキープし続けた。その驚異的な人気は1956(昭和31)年の公演にファンが殺到し、圧死事件が起きたり、1957(昭和32)年には浅草の国際劇場で狂信的なファンの女性に塩酸をかけられるなどに証明される。
映画でも1951(昭和26)年、嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」の杉作役や、1954(昭和29)年の「伊豆の踊子」などで人気が沸騰、映画会社6社がひばり独占禁止の裏協定を結んだなどと噂されるほどで、1958(昭和33)年には映画15本に主演、10曲ものヒットを飛ばし、まさに女王ひばりの黄金時代であった。この頃のヒットには語呂がいいとネーミングされ、特定のモデルはない「港町十三番地」や「花笠道中」「哀愁波止場」、140万枚のヒットとなった「柔」などがある。
ひばりの母のステージママぶりは有名で、ひばりの公演に際してはリハーサルからずっと舞台に立ちあい、些細なミスにも怒鳴ったために誰もひばりの楽屋には近づかなかったのだという。
1962(昭和37)年には小林旭と結婚するが、1964(昭和39)年に離婚。昭和40年代(1965年~1974年)に入ると、「悲しい酒」「真赤な太陽」などがヒット。新宿と梅田のコマ劇場での公演だけで、22年間で700万人以上を動員という記録を誇る。
しかし1973(昭和48)年には実弟の暴力団とのつながりで当時の警察の暴力団壊滅作戦のスケープゴートにされ、なおも身内をかばったひばりは同年の紅白歌合戦を落選、公共施設でのステージのキャンセルなども相次ぎ、事実上、干される事になった。
1981(昭和56)年の母、喜美枝の死去に続いて、1983(昭和58)年にはかとう哲也、1986(昭和61)年には香山武彦と実弟二人も相次いで死去するなど身内の不幸に見舞われ、ひばり自身も1986(昭和61)年頃から不摂生が祟って体調を崩した。
この頃のヒットには「愛燦燦」「川の流れのように」がある。1987(昭和62)年4月に両側大腿骨骨頭壊死と肝臓病で済生会福岡総合病院に入院、8月には退院し、帰京。
1988(昭和63)年4月の東京ドームコンサートはスポーツ各紙が一面トップで成功を報じたが、11月から歩くと息切れがするようになり、1989(平成1)年3月に再入院、6月10日に容態が急変し、間質性肺炎と呼吸不全、肝硬変と大腿骨骨頭壊死で6月24日午前0時28分に順天堂大学病院で死去。52歳没。一般紙各紙もその死を一面トップで報じ、テレビ各社も特別番組を流し続けて、ひばりの全盛期を知らない若年層に相当のインパクトを与えた。
同年、国民栄誉賞を受賞。死後10年経っても映像でのコンサートチケットは完売するなど、その影響力はいまだ衰えない。
本名は加藤和枝。住まいは目黒区青葉台1丁目だった。生涯の歌手生活43年で4000万枚のレコードを売った。なお、ひばりの出自について父が在日韓国人だという噂が流布されたが、実際には栃木の豊岡村で江戸時代から農家をやっており、祖父の代に小作人に零落したのが事実であった。これはひばりの父の実家と近所であり、今市市議を務めた加藤実が証言している。
江利チエミ (1937-1982)
東京都台東区入谷に4人兄妹の末っ子として生まれる。
父は浅草のピアノ弾きでクラリネットも得意な久保益雄、母は浅草で映画スターだった柴崎ゆき子、レコードでアメリカの流行歌を覚えた。
進駐軍のキャンプでは10歳から父の伴奏で歌うが、楽譜が読めず、歌のフィーリングは全部耳で覚えたという。1951(昭和26)年に舞台デビューするが、他のステージでブギを歌っていた事から、「お染久松」を主演の笠置シヅ子によって降板させられるという事もあった。
1951(昭和26)年、キングレコードのオーディションに合格し、翌1952(昭和27)年、15歳で少女歌手として「テネシー・ワルツ」のカバーでデビューし、これが20万枚のヒット。
芸名の江利チエミは進駐軍キャンプまわり時代の「エリー」の愛称を「江利」とし、これに本名である久保チエミの「チエミ」をつなげたもの。
1953(昭和28)年に渡米し、本格的なジャズの勉強をする。現地ではロサンゼルスのテレビショーに出演したり、ハリウッドでユニオンカードを取得するなど、当時の日本人歌手としては破格の待遇だった。
明朗なキャラクターから、美空ひばり、雪村いづみと「三人娘」として人気を得、女優としても活躍した。
1959(昭和34)年に俳優の高倉健と結婚。1962(昭和37)年には芸術祭賞奨励賞を受賞。1964(昭和39)年には「新妻に捧げる歌」がヒット。1965(昭和40)年から1967(昭和42)年まで、かつて映画シリーズだった「サザエさん」をTBSドラマで主演。1971(昭和46)年に高倉と離婚、1972(昭和47)年には芸術祭賞優秀賞を受賞する。
晩年は寂しい一人暮らしで、知人にいま観ているテレビ番組の事などで電話をかけてきたほどであったという。1982(昭和57)年2月13日未明、港区高輪2丁目のマンション4階の自室で吐瀉物を喉に詰めて窒息死。同月初めにファンであった梨田昌孝捕手の近鉄バファローズのキャンプ地である高知に慰問した際より風邪気味だったため、2月12日は、夕方に熊本から帰京し、自宅で寝ていた。午後4時過ぎに泥酔して帰宅したのを目撃されている。その後、一旦、寝た後にウィスキーの水割りを3、4杯飲んだ形跡があった。2月13日、午後4時過ぎから帯広での仕事で羽田空港へ向かう用事があり、午後3時にマネージャーの妻が迎えに行ったところ、自宅10畳間のベッドの上で赤と黒のジャンパーに赤のパンタロン、赤のブラウス姿で布団を胸まで被り、うつ伏せで死んでいるのを発見された。一面には吐いた後があった。
三人娘として扱われていた美空ひばりは、埼玉県深谷の公演先で電話で一報を聞き「いたずら電話と思った」「朝6時半にゴム風船が割れるような音で目覚めた」とも語った。雪村いづみは札幌のホテルで電話で一報を聞いた。親しくしていた清川虹子は新宿コマでの公演終了後に訃報を聞かされ「うそだー」と泣き崩れた。
世田谷の法徳寺に眠る。
林真理子の「テネシー・ワルツ」はモデル小説である。
雪村いづみ (1937-)
東京府東京市目黒区大岡山(現・現在の東京都目黒区大岡山)出身。
父親が自殺、10歳の頃から、進駐軍のキャンプまわりをした。
進駐軍のキャンプ巡りを経験し、日劇ミュージックホール出演中にスカウトされ、1953(昭和28)年に「想い出のワルツ」でデビュー。1954(昭和29)年に「青いカナリア」がヒット。美空ひばり、江利チエミと「三人娘」と呼ばれたが、もっぱらジャズを専門に歌った。
1961(昭和36)年に米国人青年ジャック・セラーと結婚し、1965(昭和40)年2月に別居、1966(昭和41)年に離婚。その後、渡米した。
1998(平成10)年に紫綬褒章を受章。油絵が趣味。女優の朝比奈マリアは娘。
3人の主演映画「ジャンケン娘」(1955/昭和30)年は、空前の配給収益を上げ、「三人組」という歌謡界の黄金律を確立する。
ちなみに『初代』に対して『新』三人娘は、天地真理、小柳ルミ子、南沙織である。
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