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諸星和己

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分類歴代ソロ

1970年8月12日生まれ(52歳)、静岡県富士市出身。
デビュー:1987.04.05
デビュー曲:一匹狼 LONELY WOLF(1994.03.25)

もろほしかずみ。「光GENJI」の元メンバー。愛称:かーくん、カズミ、大将、もろちゃん。

[関連ソロ・ユニット]

中学2年生(13歳)だった1984年5月10日(木曜日)、原宿の竹の子族を見るために、男女混合の友達5人グループで家出をして静岡から上京。
代々木公園脇の歩道橋の下で野宿しながら、朝に麹町の日本テレビのマイスタジオに行って、徳光和夫司会の『ズームイン !! 朝!』の放送中にスタジオの窓の外から映り込んだりなど、5日間ほど遊び暮らしていた。
その最中、手洗いで使うポケットティッシュを貰うために原宿駅前をうろついていた際、諸星が犬に手を噛まれるという一幕が起こる。その犬は、当時近藤真彦が飼っていたポメラニアンの「ラム」。そして、ラムを連れて散歩していたのが、ジャニー喜多川だった。

ジャニーは諸星に被害を与えてしまったため、「何かあったらここに電話するように」と、薄い木の板で作られた名刺を渡してその場を去った。その後、諸星は一緒に上京した仲間たちとはぐれ、一人取り残されてしまう。しかも諸星のポケットにはわずか1,200円の現金しか無く、静岡に帰ることも出来なくなった。
そこで諸星は、犬に噛まれたことを理由に、帰りの電車賃をジャニーに援助して貰おうと思い立ち、名刺の番号に電話した結果、近くの合宿所へと招かれた。
これをきっかけに、諸星は1984年の夏休みも合宿所で過ごし、男闘呼組の前々身にあたるプライベートバンド「でたらめロックバンド」にリズムギターで参加したが、その後はしばらく合宿所には行かなくなっていた。

中学3年生になった1985年の春から、ジャニーズJr.として毎週上京してダンスレッスンを受けるようになる。
中学3年の3学期の1986年1月18日(土曜日)に、麹町の日本テレビの別館で行われた『アイドル花組おとこ組』の出演者オーディションに参加。ちなみに、このオーディションをきっかけに山本淳一がジャニーズに入所している。山本は同年2月5日放送の同番組に桜隊の候補生として出演したが、諸星は同番組への出演は無かった。

ジャニーズJr.時代に、近藤真彦の付き人を一時経験。
Jr.時代の諸星は、先輩の正木慎也成田昭次からよく可愛がられていた。最も仲良くしていた親友のJr.は、同じ静岡県からレッスンに通って来ていた同い年の菅沼貴之だった。

1987年4月5日より放送開始の音楽番組『全国歌謡選抜 サブロー・シローの歌え!ヤング大放送』(TBS)に光GENJIの前身グループに当たる「GENJI」として番組開始時からレギュラー出演。
光GENJIのメンバーとして、1987年8月19日にレコードデビュー。
グループのセンター、フロントを務め、常に笑顔で天真爛漫なキャラクターから、人気、知名度は一番高かった。また、抜群の運動神経を持ってはいたが、デビュー初期にはステージアクションの失敗でしばしば重傷を負うことでも有名であり、肋骨を折って胸に包帯を巻いた姿や、松葉杖姿のままで踊りに参加することもあった。(しかし一方では、「あの怪我は静岡に帰った時に地元の不良たちにボコボコにリンチされて負ったもの」という話も根強く存在している)

光GENJIのメンバーとして活躍していた当時、「365股だった」という程、毎晩のように原宿の合宿所を抜け出しては女性たちに会いに出かけていたが、その際、常に合宿所の周辺に車を停めて待機していたというパパラッチの目から逃れるために、バイクに乗れる後輩を「影武者」として4人もキープしていた。
その中の一人が、当時バイクの免許を取ったばかりの森且行だった。他の3名は当時のジャニーズJr.たちだったが、諸星にこき使われすぎて、みんな事務所を辞めてしまった。(2008年6月19日放送の日本テレビ『ダウンタウンDX』での諸星談)
このパパラッチを撒くための作戦は「パフパフ作戦」と呼ばれ、まず諸星が合宿所からバイクに乗り、パパラッチを引き連れながらテレビ局まで行く。そして局の衣裳部屋で待たせていた影武者の後輩に、自分が着ていた服とヘルメットを渡す。そこで後輩はパパラッチを引き連れながらバイクでホテルまで行き、そのまま一人で宿泊。翌日バイクで合宿所に戻る。その間、パパラッチはホテル前でずっと張り込んだまま。
一方、別の服に着替えた諸星は、テレビ局からタクシーで女性の家に行き、女性と“パフパフする”というものだった。(2013年7月4日放送のフジテレビ『ゲスゲスHEAVEN』での諸星談に補足)

1990年8月4日、単発ドラマ『ダンナ様は18歳』(TBS)にて、ドラマ初主演。
1992年、『GOLDEN BOY』にてミュージカル初主演。
1994年3月 、『一匹狼』でソロCDデビュー。同月には東京厚生年金会館で初のソロコンサートも行う。

1995年9月、「光GENJI SUPER 5」の解散と共に、ジャニーズ事務所を退所。独立するに当たり、バーニングプロダクションの社長・周防郁雄に直訴して、自らの手でバーニンググループ入りする。
そして同年12月、バーニングプロダクション傘下の個人事務所「(株) GOLD RUSH K」を設立(2005年「(株)スターズクルー」に変更)。
2000年、自社音楽レーベル「PINK A ROCK RECORDS」を設立したものの、当時は芸能活動に対する方向性を見失い、迷走状態が続いていた。光GENJI解散以後も散財を続けていたことにより、貯金も底を突いていた。そんな諸星を見たビートたけしから、「どっか海外へ行って苦労して来い」と言われ、最後に残っていたフェラーリを売って費用を工面し、2001年5月10日、ニューヨークに渡った。後にビートたけしらの推薦を得てグリーンカード(米国永住権)も取得し、生活の拠点をマンハッタンに置くようになる。

2004年、焼きそばが盛んな街・富士宮市のすぐ隣の富士市の出身ということもあり、「やきそば親善大使」に任命される。カップ麺「ふるさとの味 やきそばかーくん」を、コンサート会場や通販で限定発売するようになった。
更に2007年には、渋谷区恵比寿の豚料理店「ぶた家別館1F」のフードアドバイザーを務め、同年8月9日には同店でしか食べられないメニュー「元祖 焼きそばかーくん」もプロデュース。また、同店ではカップ麺「ふるさとの味 やきそばかーくん」も販売するようになった。

2006年からはアパレルメーカー「クラウン・クリエイティブ」のクリエイティブ・アドバイザーを務め、華原朋美と共に「KANGOL JEANS」のイメージキャラクターにも起用された。

ダイエットマスターの資格を持っており、2006年11月、「(株) 日本ダイエットアカデミー協会」の広報宣伝担当取締役社長に就任。 ニューヨーク在住のため、同協会のニューヨーク校の代表も務めている。

2007年、独立後初となる自身以外のプロデュース曲『なぁ』(つんく♂プロデュース)で、オリコンインディーズ週間ランキング第1位を獲得する。

2007年4月、1日限りの「光GENJI復活ライブ」がフジテレビ『オリキュン』で企画され、諸星とオリエンタルラジオが『パラダイス銀河』を歌い、1400人を動員した。

2007年7月、ジェムケリーのメンズアクセサリーブランド「SETTE」のデザインを手がける。 また、同月には世田谷区用賀のカフェ「YOGA BUZZ CAFE」のメニュー「JAM DOG」も考案し、フードアドバイザーを務めた。

2007年秋、ハリウッドセレブにも人気の、ロサンゼルスの“手錠付きバッグ”のブランド「Cuffz by Linz(カフス・バイ・リンツ)」とコラボし、「GRIND」というバッグのデザインをプロデュースした。

ハワイのローカルブランド「88TEES」のデザインを手がける。

2010年8月12日、東京・青海のzepp tokyoにて40歳のバースデーライブ「BIRTHDAY LIVE ~Volt-age40~」を行う。 その際、アンコールで元・光GENJIメンバーの佐藤寛之がバースデーケーキを持って登場。 諸星は2年後の光GENJI再結成を熱望し、佐藤にメンバーの招集を依頼した。

2011年6月、佐藤寛之、山本淳一と共に、TUBEの東日本大震災復興応援歌『RESTART』に参加。

2022年7月29日放送のTOKYO MX「5時に夢中!」に生出演し、29年ぶりに再始動した「男闘呼組」について言及。ジャニーズ事務所時代「同時期に活動していた」と振られた諸星は、男闘呼組のメンバーとは「一緒に暮らしていましたからね」と振り返り、男闘呼組が再集結したTBS「音楽の日2022」を視聴したと打ち明けた。「俺が泣いたって言うとさ、ちょっとイメージダウンだから言わないけど…。結構、涙が出てきましたよ」と、ぶっちゃけトーク。
アシスタントのミッツ・マングローブから光GENJIの再結成に水を向けられた諸星は、「もちろんやりたいですよ、僕はね」と再結成への意欲を示した。(スポニチ 2022年7月29日)




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