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木野正人

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分類歴代ソロ

きのまさと。1968年12月2日生まれ(54歳)、静岡県藤枝市平島出身。
CHA-CHA」の元メンバー。「CHA-CHA」としてバップ音楽事業部と浅井企画にも業務提携で所属
愛称:キノちゃん。ジャニーズ入所当初の事務所内での愛称:Mr.マイク。

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田原俊彦に憧れ、高校時代にジャニーズ事務所に履歴書を5回送るも、返事が来ず。
そして1986年(高校3年、17歳)の夏、「これでダメなら諦めよう」と、父親の友人から借りて来たビデオカメラを使い、自宅でマイクを持って踊っている姿を撮影。選んだ楽曲は、田原俊彦の『It’s BAD』、当時発売されたばかりの少年隊の新曲『ダイアモンド・アイズ』、そしてマイケル・ジャクソンなど。しかも、ただの振り真似だけでなく、木野のオリジナルの技も入れて踊った。

このビデオテープをジャニーズ事務所に送った所、木野の華麗な身のこなしが、ジャニーズの合宿所内で大評判を得る。事務所専属振付師のボビー吉野は、夜中の2時にジャニー喜多川から電話で起こされ、「スゴい奴が居るから観に来い」と呼び出されたほどだった。手に持ったマイクさばきが印象的だったことから、「Mr.マイク」という愛称まで入所前から付けられていた。

ビデオを送ってから一週間後(夏休みに入ってすぐの時期)、ジャニー喜多川からの電話が静岡の自宅にかかってきたが、木野はたまたま家に居らず、この時は親が電話を取った。翌日、改めてジャニーから電話があり、「すぐに来なさい」と言われて、原宿の合宿所に招かれる。
しかし直近の木野には予定が色々と詰まっていたため、数週間を経てから上京。そして合宿所を訪ねると、建物の中からまず岡本健一が登場。次に成田昭次が登場し、「静岡から来たんでしょ?」と2人からいきなり声をかけられた。
その後、なかなかオーディションが始まる気配が無いので、木野がジャニーに「オーディションはいつやるんですか?」と訊くと、「そんなのいいから映画行こうよ」と言われ、ジャニー、成田、岡本、木野の4名で、自動車電話付きのジャニーの車、通称「ジャニカー」に乗り込み、ジェニファー・コネリーとデヴィッド・ボウイ主演の映画『ラビリンス 魔王の迷宮』を観に行った。こうして、オーディション無しの特待生としてジャニーズ事務所に入所し、ジャニーズJr.となる。
なお、田原俊彦との初対面は、田原が映画『瀬戸内少年野球団〔青春篇〕最後の楽園』のロケに出発する際に、合宿所でお見送りをした時だった。

ジャニーズJr.のレッスン初日は、遠慮して前から3列目に入ったが、2回目のレッスンで、同じ静岡県出身の諸星和己が呼んでくれたおかげで1列目に移動。そして3回目には1列目のセンターになっていた。毎週東京まで通う新幹線代は、運送屋でアルバイトして稼いだ。

最初に木野に用意された仕事は、田原俊彦のディナーショーの影武者役だったが、これは結局実現しなかった。次に、コカ・コーラのCMや、テレビドラマ『3年B組金八先生スペシャル5』(1986年12月26日放送)のオーディションに行くように事務所から指示されたが、「自分はバックダンサーになりたくて事務所に入ったので、タレントになってしまったら好きなダンスが出来なくなる」との理由で、オーディションへの参加を辞退した。
その後、「Mr.ミュージック」、「ジャニーズ・シニア」、「アイワントリオ」などのグループに参加。

1987年3月に高校を卒業。親が芸能界入りを反対していたこともあり、地元の静岡でサラリーマンになる。ジャニーズ事務所も退所しようと考え、少年隊が愛知厚生年金会館でコンサートを行った際、ジャニー喜多川も一緒に名古屋のホテルに滞在していることを知った木野は、静岡からジャニーの部屋を訪ねて辞意を伝えたが、「東京の子は80点でも呼べるけど、地方の子は遠くて100点でも呼べない、Youは120点だから呼んだんだ」と言われたことで気持ちが変わり、「どうしても芸能界でやっていきたい」と親を説得して、サラリーマンを退職した。

1987年6月、少年隊のミュージカル『PLAYZONE』への出演が決まる。そのミュージカルの稽古期間中、木野の元に突如、ミュージカル出演を止めて田原俊彦の夏のコンサートツアー「Young Communication ’87 SUMMER CONCERT」のバックダンスグループ「ジャPAニーズ・ジュニア」に参加して欲しいという依頼も来るが、最終的にそのまま『PLAYZONE』の方に出演することとなった。
また、木野はわずか18歳にして、ボビー吉野がジャニーズJr.のダンスレッスンに来れない時などに、代わりにダンス講師を務めるようにまでなっていた。

1987年末~1988年初頭頃、ジャニー喜多川からプロデュースの才能を見込まれ、「自身の活動の他に、光GENJIについての企画・演出を行うプレイングマネージャーにならないか?」と打診されるが、「まだパフォーマー1本でやっていきたい」と言って断った。

1988年3月、19歳の時に、田原俊彦のバックダンスグループ「B・D 104」に抜擢される。そしてフジテレビのスタジオを借りて『夜のヒットスタジオ』に向けたリハーサルを行っていた所、内線でジャニーズ事務所のスタッフ・飯島三智から連絡が入り、「ジャニーさんが『今から欽ちゃん(萩本欽一)のオーディションに行くように』って」と伝えられる。
オーディション会場である日本テレビの別館に着くと、新番組内で電話番号を紹介する際に使われる「電話番号ダンス」のダンサーを決める審査が行われた。「電話番号ダンス」にはスローバージョンと早いバージョンがあり、どちらのバージョンでも木野はアドリブでダンスを踊ってみせ、その場で萩本から合格を言い渡された。後で分かったことだが、萩本は事前に木野がダンスをしているビデオ映像をジャニー喜多川から見せられていた。
(※ 木野がジャニーズ事務所に入所したきっかけは、自分が踊っているビデオテープを送ったことだったが、入所してからも木野は自分のダンスやアイデアを伝えるため、度々ビデオに撮ってはジャニー喜多川に渡し続けていた)

1988年4月4日、萩本の新番組『欽きらリン530 !!』がスタート。初日のオンエアが終わると、ジャニー喜多川から電話がかかってきて、「You良かったよ!」と褒められた。また、木野は当初、顔を見せないように後ろ向きで「電話番号ダンス」を踊っていた。これは視聴者からの反響が増えてきたら顔を出させるという萩本の案だった。しかし当初から反響は大きく、木野の顔は早々に明かされた。
なお、木野は「電話番号ダンス」を渋谷の東急ハンズの屋上や、電話ボックスの上、原宿の竹下通りのど真ん中など、あらゆる場所で中継で踊らされた。

やがて、番組から誕生したアイドルグループ「CHA-CHA」のメンバーに選ばれ、1988年9月7日にレコードデビュー。以降、音楽番組、バラエティ番組を中心に活動し、人気を博した。
木野はCHA-CHAと並行してB・D 104としても活動していたため、CHA-CHAがヒットチャートに名を連ねていた1988年~1989年には、歌番組でCHA-CHAとしてパフォーマンスを披露した後、衣装を着替えて田原のバックダンサーを務める「掛け持ち」が多く見られた。なお、CHA-CHAとB・D 104のスケジュールがバッティングしてしまう時は、基本的にはB・D 104の方を優先するように決められていた。

ダンスを極めたいという自分の考えと、バラエティ色の強い仕事が多いCHA-CHAでの活動に温度差を感じて苦悩し、1990年5月にCHA-CHAを脱退。マイケル・ジャクソンのバックダンサーを目指し、ダンス留学のためにロサンゼルスへ渡った。
木野の脱退は、1990年春にアイドル雑誌『Best One』で最初に発表された。そして同年5月27日に、よみうりランドEASTで開催されたコンサートの直前に、バンの中でマスコミから引退についての囲み取材を受けた。
CHA-CHAへの参加は、7thシングル『キスしたい』(1990年4月25日)、2ndオリジナルアルバム『空色の気持ち』(1989年7月21日)までとなった。

1990年5月にジャニーズ事務所を退所。

渡米してからは、木野の3歳年下のダンサー・トラヴィス・ペインが住むロサンゼルスの高級アパートに部屋を借り、トラヴィスを始め、ラヴェル・スミス、ジェフリー・ダニエルなど、マイケル・ジャクソンを支えてきた様々なダンサーたちとの交流を持つ。中でもマイケルにアニメーションダンスを教えた重要ダンサー、ポッピン・タコとは、マイケルのコンサートツアー「HIStory World Tour」の時期(1996年~1997年)まで深い交流があり、よくナイトクラブにも連れ行って貰った。
トラヴィスには、デビー・ギブソンのワールドツアーのオーディションや、NAACP(全米黒人地位向上協会)イメージ・アワードのオーディションに同行させて貰った。

1991年、ロサンゼルス最大のエージェントである「BBA」の新人オーディションに合格。合格者は500人中5人で、アジア人は木野だけだった。オーディションを見に来ていたブレイクダンサーのカリスマにして、マイケル・ジャクソンの指導者の1人でもあるマイケル“ブーガルー・シュリンプ”チェインバースからは、木野が一番だったと絶賛された。

同年、日本向けにダンス教則ビデオシリーズ『LA STEP』を3本リリース。このビデオにはジャニーズJr.(Mr.ミュージック)時代の友人・中本雅俊も共演。

1993年、「NAACP(全米黒人地位向上協会)イメージ・アワード」の年間エンターテイナー部門でマイケル・ジャクソンが受賞した際、知人を通じ、マイケルの功績をたたえるコーナーでマイケルのダンスをオマージュしたソロのシルエットダンス『MJ History』を録画映像にて披露。授賞式当日に木野の踊る映像が50秒間オンエアされ、マイケル・ジャクソン本人にも観て貰えた。

1995年、マイケルジャクソンの楽曲『Money』のミュージックビデオを撮る話が持ち上がり、仲介人から「正人にも出て欲しい」と言われていたが、結局撮影は中止となってしまったため、出演は叶わなかった。

400以上のダンスクラスを受けてトレーニングを積んだ後、1995年に日本に帰国し、田原俊彦のステージに復帰。振り付け、ステージング、バックダンサーを担当し、ダンスナンバーの選曲も提案していた。
更に、「JAL CUP」でチアリーディングチームにも振り付けをし、その後もチームのコーチとして指導にあたる。その他、杉並区阿佐ヶ谷にダンス教室を開校したり(後に下北沢に移転)、瀬戸朝香、中西圭三、グレートチキンパワーズ、KinKi Kidsなどへの振り付けも行う。

2000年、オリジナル理論「スポーツダンスディレクションズ ~ フォームメカニズム」を、プロ野球選手、Jリーガー、プロゴルファーなどにディレクターとして指導開始。

2001年、ユニバーサル・ミュージック主催のビージーズ記念イベント「ビージーズ・ナイト・フィーバー」にてメインパフォーマンス。

2000年代半ばに一時、名前の後に小さな点「.」を付けて「木野正人.」に改名。

2007年3月8日、新木場・STUDIO COASTにて開催されたマイケル・ジャクソンのファン感謝パーティー「Premium V.I.P Party with Michael Jackson」に、数多くのゲストパフォーマーの中の一人として出演。木野は、独自のマイケル・リミックス・ダンスを6分50秒間に渡って披露。その姿は、マイケル本人もVIPフロアの最前列で鑑賞した。
翌3月9日、同会場で行われた2日目のイベント「FAN Appreciation Day with Michael Jackson」でも木野は同じパフォーマンスを披露(但しこの時はマイケルはアートコンテストの優秀作品選考のためにステージ鑑賞はせず)。
そしてイベント終了後に木野がマイケルの楽屋に通されると、マイケルの方から木野の姿を見つけて近寄り、前日のパフォーマンスに対して興奮した様子で「You are very creative!」と言って称賛。更に木野は「最後の部分のムーブを教えてくれないか?」と言われ、マイケルに振り付けも教えた。
そして木野は、「私はあなたの様々な企画でダンスやアイデアを提供し、あなたをネクストレベルにする自信があります。だから私を使って下さい」と売り込んだ結果、「連絡先を置いていって欲しい」と言われた。

2007年、個人ファンクラブ「MJK KINGS」を開設。

2000年代後半から静岡県藤枝市の実家に戻り、藤枝・焼津を拠点に活動するようになる。その一方で、臨時のダンス教室も各地で時折開催している。

2010年、田原俊彦のバックダンサーから離脱。
(但しその後も、田原のコンサートのアンコール終了後にステージに現われたり、田原のテレビ出演時にバックダンサーを務めたりしている。2013年9月28日に中野サンプラザホールで行なわれた田原のコンサートにもゲスト出演し、『抱きしめてTONIGHT』と『かっこつかないね』のバックを務めた)

2013年、三浦知良が出演した、スーパークーリングタオル「COOL CORE」の宣伝映像の振り付けを担当。

2018年5月4日、49歳の時に、一般女性(当時46歳、バツ1で2人の子持ち)と入籍。

同年、「NPO法人 静岡ベースボールクラブ」のアドバイザーに就任。




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