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エレキ・インスト

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エレキ・インスト

1960年代初頭のアメリカ音楽文化に於いて、これまで巨大資本を背景にレコード会社などがリードしてきたメディア戦略とはかけ離れた、南カリフォルニアの学生たちが中心となった大衆先行型のサーフィン・ミュージックの胎動があった。自主制作盤を経て全米ヒットを記録することになるサーファリス「WIPE OUT!」、シャンティーズ「PIPELINE」などのギター・インスト曲である。

日本のエレキ・インストブームでも同様の動きが見て取れる。ブームの源流は、ロカビリー時代を継承するジャズ喫茶に出演していたプロのバンドによる指向ではなく、テレビなどのメディアを利用した芸能プロダクションやレコード会社のプロモーションでもなく、のちにアマチュアバンドを組織化した通称TIC(東京インストルメンタル・クラブ)など学生たちによるブームの先取りに辿り着く。彼らが輸入盤やFEN(現AFN)でベンチャーズなどを熱心に耳コピーした動向は、ブームの萌芽を約束するものであった。

1964(昭和39)年、日本の音楽業界はニューリズムとして「サーフィン」を採り上げ、アストロノウツ「太陽の彼方に」のインスト曲に日本語歌詞を付けたカバー盤を藤本好一(寺内タケシとブルー・ジーンズ所属)が発売し、「サーフィン男」の異名とるまでのヒットとなった。同年に東芝から発売された寺内タケシとブルー・ジーンズ「これぞサーフィン」は日本人バンドによる初のエレキ・インスト曲を収録したアルバムである。エレキは歌謡曲にも橋幸夫らの「リズム歌謡」を誕生させるほどの人気ぶりだった。

下地は充分に整い、1965(昭和40)年アストロノウツとベンチャーズの来日でエレキブームは頂点を迎える。ベンチャーズは、エレキの象徴ともいえる「トレモロ・グリッサンド奏法(テケテケ奏法)」のフレーズをエレキ少年たちに植え付け、現在まで30回以上の来日を果たし、渚ゆう子や欧陽菲菲らに楽曲を提供した「ベンチャーズ歌謡」を残している。

本格化したエレキブームは、加山雄三とザ・ランチャーズ、寺内タケシとブルー・ジーンズを筆頭に多くのプロ・アマチュアバンドを誕生させ、民放各社はフジTV「勝ち抜きエレキ合戦」をはじめとしたエレキ・オーディション番組を放送するに至り、エレキと不良を同一視する社会現象にまで余波は拡がり、靴屋もエレキの生産をするほどブームは加熱していく。

エレキブームの功績は、日本の音楽文化に大衆参加型の道を拓き、すでに1964(昭和39)年の4月に全米ヒットチャート上位5曲を独占していたビートルズ・サウンドを日本に受け入れる素地を造り上げたことであろう。そして、1966(昭和41)年6月のビートルズ来日により、リバプール・サウンドがエレキにヴォーカルを加えたバンド構成を喚起し、ブルー・コメッツとスパイダースがグループ・サウンズ(GS)の先駆けとして登場するのである。(2001年12月7日)




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